『しるし・七』





「母さまっ!」
少女が、一目散に野を駆けていく。
腰を下ろして、空を見るとはなしに見ているそのひとに、摘んできた小さな花束を差し出す。
それを受け取った、少女に《母》と呼ばれた女は、人ではない。
知らぬ者がその光景を見たら、少女は何か怪しげな術でもかけられているのかと勘ぐるだろう。
だが、決して少女は操られているわけでも、無理に連れられているわけでもなかった。
自身も隣に座り、無邪気な声で問いかける。

「ねー母さま、今度はどっちに行くの?」
当たり前のように、《母》と呼ぶ。
いつからだったかなんて覚えていない、でも。
「そうだね、東の方に行こうか。戦の気配も今は無いし……」
自分もいつの間にか、それをごく自然に受け入れていた。

胡柳と明凛が出会ってから、もう四年程。
その頃は背に流していた黒髪も、今は頭の上で一つのお団子に纏めている。
背丈も伸び、少しずつ娘らしさを垣間見せるようになって来た少女に、妖は目を細める。
連れ始めた当初こそ、あまりに真っ直ぐな目や天性のものであろう明るさに戸惑う事も多かったのだが、その陽のような笑顔を見るうち、気付いたら自分も笑みを返していた。
妖だとか人だとかなんて、自分たちには関係のない事だと、そんな事を考えることすら無くなっていたのだ。
――それなのに、ふと今更な疑問が頭に浮かんだ。

「……明凛」
「なにー?」
「お前、怖くなかったの?」
「何が?」
「初めて会った時。妖の中には人を喰らう奴もいるって事は知ってただろう? 私に喰われるかも知れない、とは思わなかったの?」
そう、自分も人間の魂魄を喰らう。
尤も、それは死した産婦のものだけれど。
「全然! 良いひとだって判ったもん」
《良いひと》? 自分が?
「あたしだって、悪い妖怪もいるってことは知ってるよ。でも、母さまは違うってすぐ判った。すっごくきれいで優しい目をしてたもん。それに……」
「それに?」
「……何だか、寂しそうに見えたから」
そう言って、少しバツの悪そうな顔で微笑む。
自分には《寂しい》という感情が判らない、なのに、《寂しかった》というのか?
判らない。
堂々巡りになりそうな考えを振り払い、胡柳は立ち上がった。
「もう、行くよ。日暮れまでには、向こうに着いてないといけないんだから」
うん、と答えた少女を横目に、女の顔が鳥のそれへと、腕は翼へと変化していく。
その様を見ても少女は全く動揺することはなく、瞳には変わらぬ思慕を湛えている。
移動の際、空を飛ぶ為には本来の姑獲鳥に変化しなくてはならない。
初めてその姿を見せた時は、これで少女は怖がって自分の元から逃げ出すかも知れない。
そう、覚悟した。
だが、当の少女は反対に「きれい」と目を輝かせたのだ。
その反応に、却ってこちらが面食らったものだった。
完全に大きな鳥へと変じた《母》の背に、慣れた動作で乗る。
それを確認した胡柳は、翼を広げゆっくりと舞い上がって行った。

澄み渡った蒼空を、少女を乗せて飛んで行く、黒曜の鳥。
景色を眺め、他愛もないお喋りを続けている明凛を視界の端に捉えながら、少しだけ自嘲気味に思う。
(この子と出会ってから、判らない事だらけだね……)
だけど、それも良い。
明凛と共に在るようになって、今まで知らなかったものを知った。
日向で、その温もりに包まれるような穏やかな気持ち。
《幸せ》と呼ぶのかも知れない今の日々が、これからも続いて行くのだろうと、そう思っていた。


   *  *  *


それから数日後、胡柳はある疑問を抱いていた。
明凛の様子が少しおかしいのだ。
この地に来た翌日から、毎日どこかへ行っている。
最初の日は、何とも思わなかった。
寝床から少し離れた川へ、魚を捕りに行くと言ったのだから。
確かに、帰ってくるのは遅かった。
もう日が大分傾いて来てるというのに戻らず、心配になって探しに行こうとしたその時に、漸く姿を見せたのだ。
魚以外に、果物も持っていたので理由を問えば、川で人と会ったと言う。
果物は、その人に貰ったという事だった。
普段明凛は他の人間と接する機会は殆ど無い。
懐かしくなり、つい話し込んだのだろうと思い、それ以上追求しなかった。
でも、追求するべきだったのかも知れない、と今は思う。
行動を共にするようになってから、明凛が自分の元を離れる事なんて殆ど無かったというのに、何故?
毎日嬉しそうに出掛け、帰ってくる明凛に問うたが、結局明確な答えは得られなかった。

翌日、胡柳はこの疑問を解消するべく、明凛の後を尾けることにした。
今日も明凛は何の迷いも無く、山道を慣れた様子で走って行く。
その様子を、胡柳はどこか複雑そうに見ていた。
やがて、明凛は完全に山を下り、目的地に着いた。
そこは人里。
大きくはないが、戦の危険に晒されていない平和そうな村だ。
これはどういう事なのか?
思わず思考が止まってしまった胡柳の目と耳に次に届いたものは――

「ああ、今日も来てくれたんだね。明凛」
「うん! よろしくお願いします!」
「こっちの科白だよ。手伝ってくれて、大分助かってるんだからね」
親しげな会話と、まるで親子のように並んで歩く明凛と一人の女の姿。
他の村人達も次々に明凛に声をかけていき、女の娘だと思われる子供が明凛の手を引いて走って行く。
あっという間に、村の中に溶け込んでゆく。
村人達の中で同じように作業に勤しむ姿は、楽しそうで……ごく自然なものだった。
最初からこの村に住んでいたかのような、自分と共に在る事の方が嘘に思える位に。
そして、胡柳は踵を返した。
その深紅の瞳に、ある決意を籠めて。

「じゃあ、あたし帰るね。これ、本当にありがとう!」
空が浅緋色に染まり出した頃、村の入り口で明凛は数日世話になった女と別れの挨拶を交わしていた。
その手には、女から手渡された細長い布の包み。
「いいよ、そんなの。今日まで随分頑張ってくれたんだから。それより、本当に村に来る気はないの? 一緒に旅してるっていうお母さんも?」
「……ごめんなさい。今の生活が、好きだから」
「そう……仕方ないね。それ、お母さん喜んでくれるよ、きっと。我ながら、よく出来たと思うしね」
「うん! じゃあさよなら!」
「元気でね!」
手を振り交わし、明凛は大好きな母の所へ山道を駆け戻る。
(何て言って渡そうかなぁ……母さま、気に入ってくれたらいいんだけど)
あれこれ思案しながら走っていると、道のりがいつもより早く感じられた。
すぐに寝床へ帰り着き、こちらを向いて立っている母の姿を見つけて駆け寄る。

「ただいまっ」
いつもなら、自分が帰ると微笑みながらお帰り、と言ってくれるのに今日は黙ったまま。
「母さま? どうしたの?」
具合でも悪いのかと思い、包みを持っていない左手で母の袖を握った。
が、その手はすぐに振り払われてしまう。
「母さ……」
「母親なんかじゃない!!」
その、あまりに突然の事にすぐには頭が働かず、硬直してしまった少女に追い打ちをかける。
「妖の私が、お前みたいな薄汚い人間の親である筈が無いだろう!? 一緒にしないで欲しいね! ……単に気まぐれで連れ歩いてただけのお前に、母と呼ばれる筋合いは無いんだから」
「な、んで……? か、」
「触るな! さっさと行きな! ――二度とその顔、見せるんじゃないよ」
縋るように伸ばされた手が、一瞬震えて、ゆっくり下ろされた。
顔を俯け、両の手は包みを強く握り締めている。
表情は見えない、が、水は落ちない。必死に堪えているのだろう。
「……あたしを連れるの、もう嫌になった?」
「ああ、もう御免だ」
「……あたしのこと、嫌い?」
「興味が無いね」
納得したのか、それとも、もう聞きたくないのか、少女が言葉を発することはそれ以上はなく、妖は姿を消した。
独り残された少女は嗚咽を漏らし、渡す相手のいなくなった包みを握る手に、更に力を込めた。
静かな空に、泣きじゃくる声が響く。

どこまでも耳に纏わりつくそれから逃げるように、妖は闇を走った。
これが、自分の本来あるべき場所であり、少女のそれとは対極にあるのだと。
やはり、人間と《親子》になどなれる筈がないのだと。
あの村には平和で和やかな気が満ちていた。
人間の気性も同様だ。
あそこなら、少女は幸せに生きていけるに違いない。
それこそ、自分といるよりも、遥かに。
その事に、本当は気付いていたのかも知れない。
なのに、蓋をし続けてきた。少女が自分を慕ってくるのを良いことに。
だがこれで、少女も判っただろう。
自分は《母》などでは無いことに。
恐らく恨むだろうが、その方が思いを残さずに済んでいい。

二度と会う事はないと思った少女に、胡柳はその次の夜、再び見(まみ)える事となる。
朱に染まった、少女と。

【続く】


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