『しるし・八』





長い、長い夜が、明けた。
憎らしいほど明るい太陽が、昇る。
一昨日と、何一つ変わらぬ筈の星の動きがひどく緩慢に見えた昨夜。
夜とは、こんなにも長く底冷えのするものだっただろうか。
未練がましいことに、この耳も手も居ない明凛の面影を求め、振り払う為に目を閉じれば、浮かぶのはあの笑顔。
まるで自分まで人間になってしまったようだ。
だが、そんな自嘲はすぐに掻き消え、後に残るのは空虚な想いのみ。
もう、どうしようもないのだ。
こうする事が当然であり、後々あの子の為になる。

朝陽に背を向け、少女と出会う前の日々へと妖は戻っていった。


胡柳が目を背けた太陽を、明凛は真っ赤に腫らした目で迎えていた。
泣き尽くしながらも一縷の望みを持って夜を明かしたが、結局願いは届かなかった。
(あたし、捨てられたのかな……ううん、違う。昨日の母さまの目は、あの時の……)

そう、あの時。
初めて会った時の、綺麗な紅い眼の奥に見た、確かな憂い。
こんなに綺麗なひとが、哀しげに佇んでいるのを見ていられず、思わず声をかけたのだ。
妖怪だとかなんて、頭になかった。
その時と同じ、いや、もしかしたらもっと……。
昨夜投げつけられた言(こと)の刃は、今も胸に突き刺さっている。
でも、本心からのものではないと、何故かそう思えた。
暫く考え込んでいた少女は、初めての母への贈り物を大事に包み直し、少しずつ足取りを確かにしながら山を下りていった。


    *  *  *


「明凛!?」
昨日、永の別れをした筈の少女。
一体どうして――
「おばさん、ごめんなさい。あたしの事、しばらく村に置いてくれる?」
「……いや、別にずっと居てくれて良いんだけど……どうしたの? お母さんは? ――まさか、」
「違う!」
捨てられたのか。
未だ渡されていない包みと目が赤い少女を見てそう言おうとしたが、口に出す前に否定される。
「ごめんなさい。でも、きっと迎えに来てくれるから……お願いします!」
力強くそう告げて、頭を下げる少女。
その瞳にあるのは、信頼。
「……判った。さ、おいで」
承諾の言を受け、明凛は礼を言って再び村に足を踏み入れた。

待とう。
それが、少女の出した結論だった。
母が何故あんな事を言ったのかも、手を離した理由も判らない、ひょっとしたら本当に見放されたのかも知れない。
それでも、信じることを決めた。
何年でも待ち続ける、そうして、いつか迎えに来てくれたら、今度こそこれを渡そう。
山のすぐ麓にあるこの村なら、母が来てくれた時、姿を見つけやすいだろうと思った。
この日の夜、明凛の願いは届くことになる。
最期の、願いが。


太陽が、自らを燃やしながら一日の終わりを告げる時。
胡柳は感情の入らぬ目で、その様を眺めていた。
結局今日一日、明凛がいるであろう村から山ひとつ分程しか離れていない。
さっさと去ればいいものを、その気配を微かに、ぎりぎり感じられる所から動く事が出来なかったのだ。
……無様だ。
だが、今自分を占めている喪失感もやがては薄れていくのだろう。
もうすぐ跡形無くなる、この落陽のように。

もっと、完全に離れてしまおうと変化した胡柳が、急に後ろ、あの村の方向に振り向いた。
何の前触れもなく突如として現れた、大勢の人間の気配。
ただの気配ではなく、血気と狂気が渦巻き、加わった恐怖で更に肥大していく。
――明らかに、戦のそれ。
否応無く、明凛と出会ったあの日の光景が思い起こされる。
逡巡する間も無く、妖は疾風(はやて)となり少女の元へと馳せた。


村は、昨日見たものとは全く異なるものに変貌していた。
他とは違い本格的な戦場にはなっておらず、比較的用兵が手薄だった東方から、蒙古軍が奇襲をかけてきたのだ。
その巻き添えとなってしまった、村。
全てが奪われ、焼かれ、踏み躙られていく。
悲鳴と怒号、混乱の直中(ただなか)、妖はたったひとりの我が子を捜す。

(……母さま……)
消え入りそうな、しかし確かな声が鼓膜を打った。
声の聞こえた方を見渡す。其処にいたのは、血の海に横たわる、ひとりの少女。
もう、今事切れてもおかしくない状態なのに、その瞳には強い光を抱いたまま。
すぐさま駆け寄り、抱き起こす。

「明凛!?」
「かあ、さま……よかった。ケガ、してない……?」
「っお前は……どうして……っ!」
出会った時と同じ科白。
こんな時まで、何を言っているのか。
「あのね……あげたいもの、あるの……これ……」
「?」
弱弱しく、ほんの少しだけ上げられた手から布包みを受けとる。
そういえば、昨夜もこれを持っていた。
中から現れたのは、簪。
妖の瞳と同じ、深紅の玉を頂に据え、そこから細い鎖を垂らし、同色の小さな玉と彫金の蝶が揺れている。
蝶を含めて金具類は全て銀で彩られており、落ち着いた色彩の玉と上手く調和している。
決して華美ではないが、丁寧に作られたものだ。
華奢なそれは、胡柳の黒髪によく映えることだろう。
「……お、前……これ……」
あまりの事に、思考がついていかない。
「血で、汚れちゃってない……?」
「そんな事を言ってるんじゃない! 何で、こんな物っ……」
「お、ばさんにね、頼んだ……の。川……会っ……とき、に。……似合うって、思っ……」
「だからっ、どうして……!?」
「だっ、て。……あたし、な……も、母さまに……返、せなかっ……ら……」
息も絶え絶えになりながら、それでも少女は微笑っていた。
朱に塗れ、消えゆこうとしている、今この時でさえも少女は真白かった。
「よか……渡せ、て……ね、母さま、あたし……」
「明凛!?何――」
殆ど、かたちにならない声を振り絞る少女の口元に、全神経を傾ける。
もう二度と聞くことは叶わない少女の声が、妖の耳を微かに震わせた。

動かなくなった小さな身体を、両腕に掻き抱く。
薄らと笑んだままの白い頬を、透明な水が濡らしてゆく。
妖はこの時、永い生の中で初めて、涙を知った。

《大好き》

少女は、果敢ない笑顔で、そう告げた。
数多の骸が転がる中に、妖の慟哭が響き渡る。
その遥か頭上には命の色を映した月。
静かに、密やかに、妖を見下ろしていた。


   *  *  *


「私は明凛を、私自身の手で……失ってしまったんだよ……全く、妖の私が《泣く》なんてね……」
顔は微笑いながらも、その眼の色は濃くなってゆく。
それまで黙したままだった殺生丸が、徐に口を開いた。
「失いたくなくば、己の属にすれば良かろう」
「ふ……そんな考えも、一瞬、掠めたけどね……っ駄目、なんだ。妖に、してしまったら……あの子が、あの子で無くなって、しまう……そんな気がして、怖くてね……」
「くだらん」
「まぁ、あんたにも、判る日が来るかも……知れないよ? あんた達を見た時、本当に……驚いた。あの頃の私と明凛を、見てるようでね。遅すぎるけど、決着を……つけたかったんだ、私自身と。殺生丸、人間は……確かに妖と比べたら脆弱すぎる生き物だけど……考えられない位の、強さも持ってるんだ。本当はさ……あの子を思って、離れたんじゃないんだ……私は、あの子の全てを受けとめる事が、出来なかった……信じ切る事が出来なくて、結局死なせて。だから……あんたは。私と同じ轍は踏まないように、ね。……絶対、あんたの方から手を離しては駄目だよ……?」
魂の奥底から絞り出されたその言葉にも、殺生丸は憮然としたまま。
だが、言いようの無い不快感が、じわりと滲む。
「――余計な世話だ」
出てきた言葉に抑揚は無く、素っ気ない事この上ない。
が、胡柳は反対に頬を緩める。
「そうだね。余計な、世話だ……ここに来た、あんたを見れば……すぐ、判ること。私、みたいな莫迦は……しないか……有難うね、毒を手加減してくれ、たから……言いたい事、全部言えたよ……」
「加減した覚えは無い」
「ふふ……ねぇ……《寂しい》って……判る……?」
「そんなもの、必要無い」
「確かに要らないものだ……あの子に会っ、て……判りたくない、ものまで……判ってしまった……気付かなかったことも。きっと、あんたも……だから、大事にね……?」
諭す声音が夜の野に優しく染み込む。
哀しい程に完璧なこの妖にも、その声が届いたのかは判らない。
有るのはただ、沈黙のみ。
それを満足げに眺めているもうひとりの妖の輪郭が、段々月明かりに透けていく。
穏やかな表情を浮かべながら天(そら)へ還るその姿は、最早妖ではなく、《母親》のそれだった。
残ったのは、淡い光に照らされた一本の簪。
少女の想いそのままに、未だ輝き続ける最初で最後の贈り物は、母の後を追い、風となって舞い上がる。
頬と髪を撫でて行った、その風を見送るように天を仰いだ妖もまた、空高く飛翔する。
己を待つ、笑顔の許へ。


夜も更けて、暗闇となった世界に浮かぶ仄かな灯り。
少女を預けてきた老妖怪の塒へと戻った殺生丸が最初に見たのは、一点の翳りも無い、あの笑顔。
「お帰りなさいっ殺生丸さま! ありがとう! りん、元気になったよ!」
僅か一日、目にしていないだけの笑顔がひどく沁みる。
身を屈め手を伸ばし、すっかり色を取り戻した頬に触れる。
指先から伝わる、確かな温もり。
これを、自ら手放す時が来るのだろうか。
判らない。
不確かな未来を、確約などできよう筈も無い。
ただ……。

「りん」
「はい?」
「お前は、私と共に居たいか?」
「当たり前だよ! ずーっと、一緒にいたい!」
「――そうか」
ならば。

頬に触れたままだった手を首から背に回すと、髪に隠れていた首筋が露になる。
何の汚れも無い白い柔肌に、吸い寄せられるように顔を近付け。
ぴり、と一瞬甘い痺れが背を走った。
その場所からりんに伝わるのは、ひんやりとした、それでいて温かい感触。視界を覆っているのは、銀。
やがて温もりはゆっくりと離れ、目の前に再び殺生丸が現れる。

「……印(しるし)だ。」

それだけ告げて、身を翻し塒を出る。
何が起こったのか判らないりんだったが、慌てて殺生丸の後を追いかけた。
走り出した拍子に髪が舞い、首筋に刻まれた赤い刻印が見え隠れする。
殺生丸は追いついたりんを抱き上げ、地面を蹴る。
その時、やっと現状復帰した邪見が大急ぎで阿吽に乗り、主と少女を追って行った。

姑獲鳥が付ける《誌−しるし−》は、己が眷属にする為の、獲物の証。
では、殺生丸がりんに付けた《印−しるし−》は?
所有か、それとも約束の証か、はたまた全く別のものなのか。
知る術はないが、殺生丸の眸に迷いは一切無い。今までも、恐らくは、これからも。
りんがそれを望む限り、赤い印は消えることなく、刻まれ続けるのだろう。

長い一日が、漸く終わった。
月は、寄り添う妖と少女を清んだ紅い光で見守っている。
まるで、子を想う母の瞳のように、子が母へ贈った想いのように。

【終】


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