『しるし・六』





いつの間にか、辺りは薄闇に包まれ始めた。
全てが闇に塗りつぶされる前の、ほんの一瞬。
群青の空に浮かぶ僅かに血の色を差した二日月が、危うい鋭さを孕んで清冽なまでの美しさを放っている。
その皓々とした光が降り注ぐ野辺で、妖がひとり、その命を終わらせようとしていた。
「こんな月の夜だったかもね、あの日も……」
紡がれては闇に溶けていく言葉に、もうひとりの妖は耳を傾ける。
何故か、遮る気にはならなかった。


   *  *  *


時はこれよりおよそ三百年の昔、その頃大陸は蒙古の騎馬民族がその支配を広げていた。
周辺の諸民族を次々に武力によって呑み込み、いつもどこかで血煙が立ち昇っている。
まるで、戦国の世と同じ。
そんな人界でも妖にとっては寧ろ居心地良く、胡柳も勿論その中に含まれていた。
何しろ、自分の糧となる子を産む前に死ぬ母親にも、親を亡くした子供にも事欠かないのだから。
胡柳が一人の少女と出会ったのは蒙古の南、南宋という国の北の国境。
そこは蒙古と南宋が一進一退を繰り返す、つまり一番戦火の激しい所であった。

「全く。人間っていうのは判らない生き物だね……」
妖から見れば、どれも同じ人間。
それでも当人らにとっては別の生き物らしい。
民族とやらで分かれ、勝手に大地を切り分けてその獲り合いで殺し合う。
莫迦莫迦しいとは思っていたが、さしたる興味も無かった。
そう、この日までは。

その日、胡柳がいたのは国境のとある村。
いや、村だった場所。
耕されていた田畑は無残にも踏み荒らされ、散乱した作物は原形を留めてはいない。
人家は火を放たれたのだろう、炭と化した残骸から立ち上る煙が鼻をついたが、他にも鼻に届く臭いがあった。
大勢の人間の血と、それらが焼けた臭い。
戦があったのだから、当然といえば当然のこと。
胡柳とてそれを承知の上、生き残った女童(こども)でもいれば、と思いここに来ている。
そして予想通り、女童はいた。

「どうしたの?」
意外にも、話しかけてきたのは少女の方からであった。
今は人の姿をとっているとは言え、一目で《妖》と判る自分に何の怖れも無く話す少女に内心驚く。
いつもは術をかけ、思考を奪ってから攫っているのだから。
だが、少女の次の一言に胡柳は今度こそ耳を疑った。
「大丈夫? ケガとかしてない?」
それは、こちらの身を心配する言葉。
見れば、少女の方こそ無事とは言えない様子である。体中が煤や泥で汚れ、擦り傷もいくつか見つかった。
その程度で済んだ、と言えばそれまでだが年の頃は十にも満たないだろう。
村周辺に他の人間の気配は感じられない……つまり、この少女はたった一人の生き残りという事だ。
この年で独りになってしまった子供が自分の事より他者を気にかけている。
それも、妖の自分を。
この時ほど、人間を理解不能な生き物だと思った事はない。
思わず呆気に取られる胡柳を、少女は少し首を傾げて不思議そうな目で見上げてくる。
自分らしからぬ動揺を隠して、胡柳はようやく口を開いた。

「――別に、怪我なんかないよ」
「ほんと? 良かった、今薬草も何もないからどうしようかと思ったの」
そう言う少女の表情は《安堵》以外の何物でもなくて。
「お前、私が何なのか判ってる?」
「? 妖怪……だよね?」
「判っててそんな事訊いたの? 私ら妖は、人間同士の戦で怪我するようなひ弱じゃないよ」
「うん、そうかも知れないけど……でも妖怪だってケガしたら血が出るし、痛いでしょ?」
それはそうなのだが、どこかズレている。
この少女には警戒心というものが欠落しているのだろうか。
「……お前、家族は?」
答えは、判っていたけれど。
「みんな、殺されちゃった。家も焼けてたし、他の村の人たちも……よくは判らないけど、多分」
無邪気な顔が途端に曇る。
一体自分は何をしているのだろう。
さっさと術をかけて眷属としてしまえば良いのに、何の益にもならない話をしてどうする?
ましてや――

「どこか、当ては?」
「ううん。村以外に知ってる人もいないから」
「……一緒に、来る?」
少女が顔をパッと上げ、目を丸くする。
口に出した後で、しまったと思った。
いくら少女の方から話しかけてきたとはいえ、妖の自分に付いて行くなんて選択肢がある筈ないのに。
そもそも、女童を攫って自分の眷属にするのは姑獲鳥としての、いわゆる本能。
それ以外の理由で人間の女童を連れる事なんて有り得ない。
今日の自分は、何だかおかしい。らしくないにも程がある。
これ以上変な事を口走らない内に立ち去ろうとしたのだが、少女から予想外の答えが返ってきた。
「良いの!? 嬉しい!」
そこには一点の迷いもない。
「……私は人間じゃない、妖だよ」
「うん?」
それが何? とでも言いたげな顔。
自分から言い出した事に戸惑いつつ、また一つ、今度は観念したように溜め息をついた。
「……おいで、川に行くよ」
「へ?」
「取りあえず、その汚れた体を洗わなきゃどうにもならないだろう?」 
「……! うんっ♪」
「お前、名は?」
「明凛(メイリン)! あなたは?」
「――胡柳」


   *  *  *


「それから、ずっと一緒にあちこち巡ったよ……今思い返しても、何であの時あんな事言ったのか、判らないんだ……けど、ねっ……姑獲鳥は、死んだ産婦らの寄せ集め……母性ってやつなのかも、知れないけど……」
段々、途切れがちになる息。
それでも言葉を続ける妖を殺生丸はただ見ている。
いつもと同じように見えるその眸の奥に、僅かに滲み始めている感情を自覚してはいないのだろう。
己を此処に留まらせているものが何なのか判らず、少々の苛立ちを覚える。
かといって、止めを刺したり捨て置く気には、やはりならなかった。
無表情の面(めん)の下で、静かに心を揺らす殺生丸を見て微笑んでいた胡柳の顔が、一転沈む。
再びその口から紡ぎ出される昔語りは、まるで。

空では二日月が益々その光彩を強めて、痛い程の光を放っていた。

【続く】


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