『しるし・五』





深く閉ざされた森の中に浮かぶ野辺に、魂風(たまかぜ)が吹き渡った。
そこには対峙する男と女――いや、妖がいる。
男はその金の瞳に怒りを宿らせ、隠そうともせず女を睨めつけるが、女は怯むことなく、整った顔に妖艶な笑みを湛えている。
その耳は尖り、髪は漆黒、瞳は深紅で彩られている。
大陸の妖だからか、纏っている衣も彼の地の物だ。
外見は若い女だが、それなりの年月を生きてきた事はその妖気で知れた。
「待ってたよ。殺生丸って言ったかね? 私は胡柳(コリュウ)。間近で見るのは初めてだけど……」
「どういう積もりか知らんが、後悔しても遅い」
言うなり、爪を鳴らして音もなく虚空を切る。
首筋に狙いを定め、あと一瞬で爪が届くその時――

「顔は父親にはあんまり似てないねぇ」

不意に聞こえた《父》の言葉に思わず手が止まる。
自分の首に毒爪が突きつけられているというのに、女は変わらず笑みを浮かべて殺生丸を見ていた。
「――どういう事だ」
「これが竜骨精を封印した化け犬の倅か。ま、直接会ったわけじゃないけどね」
「竜骨精? 何の関わりがある」
殺生丸にとって、決して良い記憶はないその名前。
あの妖怪と戦った際の傷で父は死期を早めたのだ。
「別に? ただ、同じ大陸の妖怪だからね、一度くらい会ったこともあるけど。話は聞いてたよ。こっちの方まで手を出した挙句、化け犬に封印されたってね。そいつがどんな奴かと思って見に行ったんだけど……深手の上、人間の女にご執心の様子でさ。どっちみち、そう長くはないと思って戻ったよ……案の定、だったようだね」
「今更、何をしに来た」
「面白い話を聞いたものでね。その、人間の女の為に死んだ化け犬の倅もまた人間の女童(こども)を連れ歩いてるって。半妖だっていう弟ならいざ知らず、あんたは人間が嫌いなんじゃないの? 父親を死なせたんだから。どういう関係なのか、興味が出たから来たんだ。あんまり長く生きてると、面白い事なんてそうそう無くってねぇ」
そう言う女、胡柳は面白い玩具を見つけたと言わんばかりにくつくつと笑いを漏らす。
冗談ではない、と殺生丸は思った。
こいつの単なる遊びの為に己は振り回され、りんは命の危機に晒されているというのか。
突きつけた爪を女の首に食い込ませる。
血が一筋流れても、胡柳は動揺する気配もない。
今の状況を心の底から楽しんでいる様子で、珍しく感情の揺らぎを見せている殺生丸を更に煽る。
「ああ、そういえば……封印された竜骨精が見当たらなくてね、一体誰にやられたんだい?」
――答えを、知った上での問いであることは明らか。だが。
「それがどうした?」
別段、どうでも良い事だ。
あれを倒したのが犬夜叉であろうと何であろうと、私自身の誇りに何ら関わりは無い。
金の双眸に、ほんの少し現れた波が静まりだしたのを見た胡柳は、この事柄では思ったより動揺を誘えないと悟ったのか、次へと矛先を変えた。
「随分、余裕が無いんだね。そんなにあの子が心配? 悪いけど、りんはもう私のものだよ? 《誌》をつけたんだから」
「貴様を殺せば済む事だ」
「おや、りんがどうなっても良いの?」
「何?」
「私の血で付けた誌で、あの子と私は繋がっている。私の気まぐれ一つで、すぐにでも死んでしまうよ? 今すぐあんたが私を殺したとしても、やろうと思えば息絶えるその瞬間にあの子も道連れに出来るんだから」
力を込めた爪をそのまま薙ぐことも出来ず、殺生丸は抑え難い怒りを妖気に変え胡柳をとり囲む。
その様子にほくそ笑んだ胡柳は更に続けた。
「大体、なんであんた程の妖がそんなに必死になってるの? どういう積もりで、あの子を連れ回してる?」
「りんの好きにさせているだけだ。貴様には関係ない」
「へえ。じゃあ、もしりんが人里に戻りたいって言ったら!?」

(いちいち、癪に障る……だが……)

一見、ただ殺生丸を挑発しているだけの様に見える胡柳の言動。
だが、段々余裕を失くしていっているのは殺生丸ではなく胡柳の方であった。
投げつける言葉も殺生丸へというより、自分自身へのものの様だ。
その紅い眼には、明らかに怒りが込められている。
――誰へ、何の?
だがこんな事に拘(かかずら)わっている時間など無い。
断末魔を上げる暇も与えずに、この毒で滅すれば良いのだ。
それを実行に移そうとした時、胡柳は再び口を開いた。
「答える気はないみたいだね。それとも答えられない? あんた、あの子を喰らうつもり? 確かに、あの魂は本当に美味しそう。私が子供を攫うのは喰らう為じゃないんだけど……たまには良いかもねぇ? どんな味がするのか楽しみだよ。これ以上弱らない内に、私が貰ってあげる!」

迷うまでもなく、爪を一閃する。
緋色の鮮血がふたりの妖を朱に染めた。
女は悲鳴を上げることもなく、後ろの木に凭れ掛かって力なく座り込んだ。
その顔は何故か、安堵しているように見える。

「――わざと、か」
「ふふっなんだ、やっぱり気付いてたのか……りんは大丈夫だよ、あんたが戻る頃には目を覚ましてるだろうから」
そう言うと、女は咳き込んだ。体は一層朱く染まり、それとは反対に命の火は小さくなってゆく。
「……あの子は本当に真っ白な子だねぇ。私も、数え切れない程子供を攫ってきたけど……二人目だよ、あんなの」
「二人目?」
女は、対峙した時とはまるで別人の様にどこまでも優しく、穏やかに微笑んでいる。
その紅い眼は、遠い昔をひどく懐かしむ様に儚く透き通り、悲哀を滲ませていた。
「そう、二人目。もう、三百年近くなるのかね、あれから……」

【続く】


「小説」へ トップへ