『しるし・二』





翌日、りんは邪見の大声で目を覚ました。
「も、申し訳ありません! 殺生丸さま! お帰りになっていたとは露知らず……せ、殺生丸さま?」
踏まれるか、蹴り飛ばされるか、それとも……とこれまでの折檻が頭の中を駆け巡っていた邪見だったが、予想に反して殺生丸は下僕の失態など完全に目に入っていなかった。
その注意はただ、りんにだけ向けられて、上体を起こしたりんの前に膝をつく。
どう見ても常の主では考えられない行動に邪見は目を見開いたが、りんの状態も常ではないことに漸く気が付いた。
いつもなら、りんは殺生丸の気配に姿が見える前に気付いて目を覚ますというのに、今朝は邪見が騒ぎ出すまで起きなかった。
その上、殺生丸の顔が自分の目の前にあるというのに、これといった反応が無い。
瞳も、いつもの輝きは薄れて力が無い。

「……せっしょうまるさま……・おかえり、なさい……」
やっと、それだけ口にする。
本当にこれが、あのやかましい程よくしゃべる少女なのか?
一体何がどうなっているのか、邪見は皆目見当がつかなかった。
よくよく見てみれば、顔色は決して良くない。
昨日まで薄桃色だった頬は白く、黄色みを帯びている。
(病なのか? だが、昨日は何も変わりなかったというのに、それが一晩で……?)
一人混乱している邪見をよそに、殺生丸は着物の胸元近くに付けられた血の痕を難なく見つけ、あからさまに眉を顰めた。
堂の前に降り立った瞬間から漂ってきた、血の臭い。
明らかに妖怪のそれは、こともあろうにりんから発せられていたのだ。
更に臭いを辿ってみれば案の定、着物にはまるで《所有物》の証であるかのように、誌(しるし)が残されていた。

役に立たない下僕らに軽く舌打ちする。
「りんを寝かせろ。ここから動くな」
それだけ言って、殺生丸は再び空へと飛翔する。
ふざけた事をした者に、その罪を思い知らせるべく。
誌をつけられたのは昨夜に間違いなく、体調の変化もそれが原因なのは火を見るより明らか。
殺生丸は、ごく僅かに残っている着物の血と同じ臭いを追い、その先へと翔けて行った。


――あとに残された、未だに事情を理解できず立ち尽くしている邪見に阿吽が近寄ってきた。
阿吽は言葉こそ話せないものの、理解はしており、慣れた者ならば鳴き声や仕草で意思の疎通も図ることができる。
自分の知らぬ間に、りんが川に入っていたこと(しかも夜)を知り、元々青い顔が更に青くなる。
りんを見れば、さっきと同じ姿勢でぼうっとしており、目は焦点が合っていない。
「りん! しっかりせんか!」
肩を揺すり、声をかけても全く反応しないりん。
まるで魂の無い抜け殻のようだ。
自らではぴくりとも動かないりんを寝かせ、邪見と阿吽は不安げにその様子を見守る。
阿吽は、安全よりもりんの願いを優先させてしまったことに後悔の念を抱いていたのだが、邪見はというと。

(りんのこんな様子は初めてじゃ……川で一体何があったのだ……妖怪の仕業か? それにしても何で殺生丸さまのお留守に。知らなかった事とはいえ、これは後で絶対折檻……いや、もしかしたら半殺し……?)

りんの心配半分、事が終わった後の折檻への恐怖半分、という複雑な心境であった。


    *  *  *


二時(約四時間)ほど経った頃、りんは目を覚ました。
が、完全に覚醒しているわけではなく、頭の半分に靄がかかっているようで思考が定まらない。
「りん、大丈夫か!?」
邪見の声が聞こえる。
ゆっくり顔をそちらに向けると、阿吽も横にいて、りんを覗き込んでいる。
大丈夫、と言いたかったが、何故か力が入らなくて気力も湧かず、首を縦に動かすので精一杯だった。
そんなりんの様子を見ながら、邪見は言葉を続ける。
「今、殺生丸さまが動いて下さっておるからな、直ぐに治るじゃろ。全く殺生丸さまのお手を煩わせおって……ああ、そういえば腹が減る頃じゃな、今日はワシが調達してやるから大人しくしておれよ。また殺生丸さまのおられない時に何かあったら今度こそ命が……」
そう言いながら、お堂を出る。
それを見て、りんは弱弱しくだが微笑む。
言葉自体はいつも通りぶっきらぼうなままだが、その端々に労りが見え隠れする。
(邪見さま、ありがとう……)
それにしても、とりんは思った。
自分は一体どうしてしまったのだろう。
昨日寝る時までは普通だったのに、今朝目が覚めたときから記憶がはっきりしない。
殺生丸がいたように思うが、何もかもが朧気で、これが夢なのか現実なのかすら判らなかった。
殺生丸に何か言った後、そこで意識は途絶え次に気が付いた時には寝かされていて、既に殺生丸の姿はなかった。
確かに川には入ったけれど、風邪などではないことは判っている。

早く、治さなくちゃ。
そう思った時、どこからともなく、一人の女の人がりんのすぐ傍に現れた。
綺麗で、優しそうで……でも、普通の人ではないこと位は今のりんにも判った。
何故だか、おいで、と言っているように見える。無性に、そちらへと行きたくなる。
お堂に残っていた阿吽も、この女が人間ではないと判ったが、足が縫いとめられたみたいに動かない。
足だけではなく、雷撃を放とうとしても口を開ける事すらできない。
そうこうしている間に、りんは歩く力など出ない筈なのに立ち上がり、一歩二歩と足を進める。
そして、差し出される手に自らの手を重ねようとしたそのとき――


突然、りんの前から女の人が消える。
代わりに現れたのは、珍しく余裕のない表情をした――――殺生丸だった。

【続く】


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