『しるし・一』





夏、全てを灼き尽くさんとばかりに容赦ない日射しが生気を奪っていく。
日が落ちてもその残滓は色濃く残り、大気は未だ熱を帯びていた。


「あつ〜い……なんで夜になってもこんなに暑いのかな……邪見さまは? 暑くない?」
「あ? わしは妖怪だぞ? この程度で暑いわけがなかろうが!」
――言う通り、りんはじっとりとした汗が引かずパタパタと手で気休めの風を送っているのだが、邪見は一応妖怪の端くれ、平静を保っている。
殺生丸は、今夜はいない。いつもの如く、《ここにいろ》とだけ言った次の瞬間には既にその姿は空にあり、すぐに見えなくなった。
だが、以前の無言のまま置いて行っていた事を思えばかなり進歩していると言えるだろう。
《ここにいろ》という事は、待っていれば帰って来てくれるという事。
最初こそ、このまま置いて行かれるのでは、と不安だったりんも最早そんな様子は全くない。
今夜の宿に定めた荒れたお堂で、その蒸し暑さに辟易しつつも邪見と阿吽を相手におしゃべりを続けながら帰りを待っていた。


    *  *  *


夜も更け、邪見と阿吽はもう眠りについている。
が、りんは寝苦しさでどうしても眠ることが出来ないでいた。
昼間、お堂の近くに流れている川で食料の調達ついでに水浴びをしたのだが、すぐまた汗で体中がベタついてしまっている。
(もう一度水浴びしたらすっきりするし、きっと眠れるよね……)
そっと起き上がり、邪見と阿吽の様子を伺う。
邪見の方は問題ない、高いびきをかいている。
阿吽はりんの動きに気付いて頭を上げ、その四つの目でどうしたのかと問う。
「阿吽、ちょっと川で水浴びしてくるね。流れもそんなに速くなかったし、大丈夫だよ。……邪見さまは起こさないでね?」
邪見が起きたら《暗い中で水浴びなんぞとんでもない!》と言われ絶対行かせてもらえない。
阿吽もそう思ったのか、怪しい気配が近くにないことを確認してから、首を縦に振る。
――といっても、勿論りん一人に行かせるわけにはいかず、りんに続いてお堂を出た。


「はー気持ちいー♪」
ぱしゃぱしゃと音をたてながら、水に遊ぶりん。
空はよく晴れていて、月や星々がそのまま水面に映りこんでいる。
水上でゆらゆら揺れる星空の中、雫を纏うその姿は、幻想的ですらある。
だが、りん本人はただ汗を流せたことに満足し、至福のときを味わっていた。
阿吽は川岸でりんが転んだりしないかと注意の目を向けている。

――その上空を飛ぶ、影がひとつ。
鳥の様に見えるそれは川にいる少女に目を留め、その獣眼を妖しく光らせる。
そして、少し離れた岩にかけてある少女の着物を見つけると、嘴で自身の翼を少し傷つけた。
ぽたりと一滴流れた血は、少女の着物に落ちて染み込んでいく。
それを確認した鳥は、満足げに目を細め、夜の闇に溶けていった――。

「……そろそろ出ようかな」
夏とはいえ、夜に長いこと水に浸かるのは体に良くない。
邪見や殺生丸に見つからない内にと、りんは川から上がり、手ぬぐいと着物を手に取る。
市松模様の赤の部分であった為、それに人外のモノの血が付いていることにりんは気付かなかった。
阿吽もまた、りんにばかり気をとられていた所為か、はたまたソレが遥か上空にいた所為か、存在にも、勿論血にも気付くことはなかった。
後に、阿吽はこの夜りんに水浴びさせたことを後悔することになる。


二人(正確には一人と一頭)はお堂に戻り、再び眠りについた。
殺生丸がようやく帰ってきたのは翌日、朝日が昇る頃であった――――――。

【続く】


「小説」へ トップへ