『Eine Puppe 〜中編〜』





「――しっかし、何を考えておられるのやら。昔からあんなに嫌っておられたものを……」
あたしに喋っているわけじゃない独り言を呟きながら部屋の掃除をしているのは、あの時のおじいさん。
名前は邪見といって、この家の使用人頭なんだと、ここに来た翌日に知った。
もちろん自己紹介をされたのではなく、会話の中で聞いたのだ。
他にもこの家は何代も前からの名家だとか、今の当主はあのひとでお父さんは大分前に亡くなったとか、色んなことを知った。
邸の大きさの割りに使用人が明らかに少ないのは、あまり人を置きたがらない主の意向によるものだってことも。
普通なら仕事の範疇じゃない掃除をこのひと――邪見さまもしているのはその所為だろう。
それから、もうひとつ。
一番、大事なことも知ることができた。
あのひとの、名前。

―――殺生丸さま。

名前も、すごくきれい。
それを知った時は嬉しくて、何度も何度も心の中で繰り返した。
その度に、温度なんて無い筈のあたしの胸は陽だまりみたいにあたたかくなってゆく。
……判らないことも、たくさんあるけれど。
でも全部殺生丸さまにしか判らないことだから、訊くしか知る術は無い。
声を持たないあたしには叶わないことだった。

鬱々とそんなことを考えてたら、こっちに近付く足音とドアを開ける音が聞こえた。
「失礼します。旦那様がお呼びです。」
「おぉ、すぐに行く」
入ってきたのはメイドさんの一人だった。
勝手なもので、脳裏をよぎった期待に寂しさが込み上げる。
部屋を出ようとしたその人が、ふとあたしを見て微笑んだ。
「可愛いですね、この子。――名前は、何ていうの?」
後の言葉はあたしに向けられたもの。
あたしの、名前は――……
「何を馬鹿なことを言っとる。全く、喋れるわけでもない相手に……」
「あら、判りませんよ? 答えてくれるかも知れません」
ね? と、あたしに同意を求めるように笑顔を向けるその人に、邪見さまは付き合いきれないとばかりに部屋を出た。
「じゃあね」
その後、軽く手を振りながらドアの向こうにいなくなった優しい人に、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
答えられるものなら答えたかった。
でも、あたしにはできない。
ごめんなさいと、謝ることさえできないのだ。

一人でいた部屋に再び人の気配が近付いてきた。
姿を見せたのは、邪見さまでもメイドさんでもなく……殺生丸さま。
ゆっくりと近付いて、手を伸ばす。
耳の横で、何かの擦れる音がする。
判ってるのに、胸の高鳴りをどうすることもできない。

伸ばされた手は古めかしい本を持ってすぐに離れた。
錆鼠色の表紙を開き、長い指が頁を捲る。
その仕草と密やかな音にまであたしは惹きつけられてしまう。
……そう、時折やって来るこのひとの目的は、あたしじゃない。
天井に届きそうなほど高くて大きな本棚。そこに整然と並ぶ本の中にはどんな世界が広がってるのだろう。
長い年月をかけて蓄積された知識は気品さえ醸し出しているようだった。
そしてそれは、このひとも同じで。
窓から射す光を反射してるんじゃない、殺生丸さま自身が光を放っているのだ。
あの時と、同じように。
本に向けられていた目線が少しだけ上がり、きらりと光ったものが目に刺さった。
銀縁の眼鏡。細やかな作りで楕円形のレンズを持つそれは、おそろしくこのひとに似合っている。
だけど……眼鏡をかけている時の殺生丸さまには、何故か余計に壁を感じてしまう。
目に見えるレンズというものを境界にして、周りを遮断しているような、そんな気がして。
ぱたんと本を閉じ、気怠げに眼鏡を外したそのひとがあたしを見る。
――また、だ。
また、この眸。
何を言うことも無く、沈黙のままにあたしを射抜く。
冷たい氷の奥に苦しげに揺らぐ焔を孕みながら。
そして、決まって眸を閉じる。
次に開かれた時にはもう、何も窺えない涼しいだけの金に戻っているのだ。

贅沢、だろうか。
何か言ってほしいと願うのは。
触れてほしいと願うのは。
あたしにできることは何?
あたしは何の為に、ここにいるの?
抱いては、くれないの?
ねえ、

――ドウシテ、アタシヲ買ッテクレタノ………?


    *    *    *


浅い夢を見た。
セピアに色褪せた、随分昔のような気がする記憶の一片。

――また、それを見てらっしゃるんですか。
――ん? ああ、お前か。どうした、遊んでほしいのか?
――そういう意味ではありません。
――はは、そう渋い顔をするな。可愛い顔が台無しだぞ、殺生丸。
――可愛いなどと言われたくはありません!
――だから、そう怒るものではない。そうだ、まだ教えてなかったな。これの名は……

(よりにもよって、あんな夢とは……)
消化しきれない重みを引きずるように半身を起こし、額に手をついた。
《あれ》を買ったのは、ただの気紛れだ。
父への当てつけ……そんな子供じみた意図がほんの僅かも頭を掠めなかったかと言われれば、否定はできない。
だがそれを含めても、己にとって単なる気紛れにしか過ぎないのだから。
なのに、この様は何だ?
いっそ、ひと思いに壊してやれば気が済むのだろうか。
……違う。
それは父への敗北も同じだ。そんなことは、己の矜持が許さない。
「父上、あなたは……」
知らず呟き、そして――……


次の瞬間、殺生丸は消えた。
空のベッドを、鈍い光を放つ剣が深々と襲う。
たちまち、静かな夜は渦巻く殺気に彩られた。
突き刺した剣を抜く音と舌打ち、それから足音が同時に聞こえ、殺生丸は数を確認する。
(四人、か)
この人数でどうにかできると本気で思っているのだろうか。
よほど自信があるのか、侮っているのか。
どちらにせよ、殺生丸には関係ないことだった。
口元だけで薄くわらい、飛び退く際に枕元から取った己の得物に手をかける。
剣とは違う片刃の――父から譲られた、刀を。

(何の音……?)
いつもと同じ、風の音しかしない筈の夜には似つかわしくない物音。
不安に襲われ、かすかに聞こえたそれに必死で耳を澄ます。
聞き覚えの無い声と金属音と、何かがぶつかり合う激しい音。
壁を何枚か隔てたこの部屋にまで伝わってくるその空気は、尋常ではなかった。
――殺生丸が危ない。
それが判っても、自分にできることは何も無かった。
どうして?
どうして、自分はこんなにも無力なんだろう。
あのひとの為に何もできない自分など、存在する意味が無いのに。
買ってくれたあの瞬間から、自分は殺生丸のものなのに
何もかもと引き換えてもいい。命なんか要らない。
だから、だからどうか――……!

『――あの男を、助けたいか?』

不意に届いた、声とも言えぬ声。
どこから聞こえるのかも判らないそれは、直接頭の中に響いてきた。
(え……?)

『助けたいのかと、問うている』

助けたい。当然だ。声の正体なんてどうでも良かった。
それこそ、神であろうと悪魔であろうと。

『ならば、お前の望むものを与えよう。但し、それが叶うのはほんの一時。その間に条件を満たせば幻は真となる。だが、できぬ時は――……』

滔々と紡がれる《条件》は限りなく不可能に近いものだった。
そして、できなければ自分は……でも、気持ちは変わらない。
お願いします、そう言葉を継ごうとした時には既にその望みは叶っていた。
声も、もう聞こえない。
ぎゅっと唇を結んだ少女は、ふらつく足で音のする方へと走り出した。

【続く】


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