ギィン、と刃が弾き合う。
殺生丸の手にあるのは自身の刀ではなく、斃した一人から奪った剣だ。
下手に鍔迫り合いをすれば、刀身を傷めてしまう。こんな侵入者の為に犠牲にするつもりは毛頭無かった。
両手で柄を握り、何とか押し切ろうとする相手を殺生丸は左手一本で制し、右手に持った刀の握りを直す。
白銀の冷たい肌を鮮赤が伝い絨毯を染めていたが、そこに伏した物言わぬ体からも同じものが流れ続け、澱んだ池を為しているからさして変わりはないだろう。
冷めた表情のまま、難なく振り払う。男は体勢を崩しかけたが何とか踏み止まり、再び切っ先を向けた。
(――少しは使えるようだな)
四人いた侵入者は、既に一人になっていた。それでもこの男は退こうとしない。
「馬鹿なことをしたものだな。剣ではなく銃だったら、最初の一撃くらいは手傷を負わせられたかも知れぬのに」
「それはこっちの台詞だ。こんなだだっ広い邸だってのに、自分の立場判ってんのかよ?」
男の言い分も、尤もだった。
ただでさえ数の少ない使用人、その殆どが住み込みではなく通いなのだから。
施錠されていても、それを破りさえすればこんなに容易く忍び込める邸もないだろう。
途中で見咎められる恐れは殆ど無く、広大な邸の一室で何かが起こっても気付かれる可能性は低い。
数ある貴族の中でも、政治に深く関わっているとされる家にしては無用心が過ぎる。
わざとではないかと思うほどの不自然さ。
それは判っていたが前金で雇われた手前、諦めるわけにはいかなかったのだ。
「……それにな、得物が銃じゃねえのは音で余計な奴らに感づかれない為なんだよ」
じりじりと、相手の隙を窺いながら吐き出す声には恐怖が混じり始めていたが、その相手は冷笑さえ浮かべている。
「だから、馬鹿だと言っているのだ。私を相手にする方が簡単と思っていることが」
もう殆ど勝負はついていた。
殺生丸の腕なら、今頃四つの死体の始末に役立たずの老僕を叩き起こしているところだろう。
それを長引かせているのは愉しむ為、ただそれだけだ。
警備の者や護衛をろくにつけていないことも。
大した起伏もなく、興を引かれるものも無い繰り返しに時たま訪れるせっかくの刺激なのだから。
(……だが、そろそろか)
剣を交えるのは面白いが、それは力量が拮抗していてこそ。
左手の剣を捨て、手に馴染んだ得物を構えた。
――来る。
直感し、男は身構えたが間に合わない。
避けようとした刃は僅かに逸れて胸の中央を抉り、悟った男はずり落ちる視界に見えた目の前のものへ向かって発砲した。
背に隠し持っていた使う筈ではなかった物だが、躊躇う理由はもう――無い。
夜を劈く銃声。
それは、主の寝室で起きていることなど全く気付かず鼾をかいていた邪見にも届いていた。
飛び起きて廊下をひた走る。
だが、眉根を寄せているのは純粋に主の身を案じているからだけではない。
決して忠誠心が希薄なのではなく、むしろその逆。慣れた、と言うべきだろうか。
(ああもう、全く。どんなに申し上げても聞き入れて下さらんからこういう事に〜!)
殺生丸が強いのは誰よりも判ってるつもりだ。
しかし、それとこれとは話が別。用心に越したことはないというのに。
……何が起こるか、判らないのだから。
「殺生丸さまっ! ご無事ですか――!?」
ドアが開いたままの主の寝室へ駆け込んだ邪見は、目の前の光景に息を呑んだ。
床に転がった数人の無残な死体。
夥しい血。
急いで殺生丸の姿を探すと、いた。
仰向けに倒されたようだが上体は起こしている。だが――……
「殺生丸さま!?」
主の腹部あたりが何か黒っぽいもので覆われている。
まさか怪我を、一気に血の気が引いた頭は虫のように小さな声で正気に返った。
「……せっしょう……さ、ま……よかっ…………」
黒っぽいもの、それは主を庇うように覆い被さった少女だった。
どうやって、何故、いや、それよりもこの姿は――
「……あの……人形……!?」
――隠し持っていた銃に気付かなかったのは不覚だった。
それでも、致命傷を避けることはできた筈だった。
動きが一瞬止まってしまったのは、突然現れたひとりの少女に目を奪われた所為だ。
迷うことなくこちらに向かい、男との間に立ち塞がった背中を銃弾が射抜く。
苦痛に顔を歪ませながらも、ゆっくりと己に倒れこむ少女は……笑っていた。
弱々しい笑みを向けるその顔、目と髪の色、服装。
何もかもが、《あれ》と瓜二つ。
だが、そんなことがある筈が無い。
珍しく、本当に珍しいことに、殺生丸は今の状況を判断できずにいた。
言葉を発することもできなかったが、頬に触れた震える感触に、はっとする。
「あ、たし……やく、たてた……? わらって……くれる……?」
血に濡れたその笑顔は、信じられないほど清廉で。
「――お前は……」
伸ばされた手が力を失うのと、声は同時だった。
少女は、殺生丸の次の言葉を待たずに目を閉じ、動かなくなり、そして……
柔らかな肢体は見る間に小さくなり、体温を持たない元の人形へ戻った。
「――……りん……」
無意識のうちに、殺生丸はその名を呼んでいた。
何度も聞いた、しかし自分では一度も呼んだことの無い、人形の名を。
《それ》を父から見せられた時のことを、よく憶えている。
彼女から貰った、かの国の人形なのだと嬉しそうに眺めていた。
正妻の他に愛人の類をもつことは父ぐらいの地位では当たり前といっていい。
母はそういうことには頓着しなかったし、己もとやかく言うつもりはなかった。
だが、父は死んだ。
その女の国で、女を庇って。
何度勝負をしても勝負にならなかった、全てにおいて目標だった父。
その父を己から奪った非力な存在を赦すことは、できなかった。
どこへ吐き出せば良いのか判らない衝動……
ふと、あの人形のことを思い出した。粉々に砕いてやろうと、思った。
今思えば馬鹿げたことだが、そんなことぐらいしか術を知らなかったのだ。
……結局、その人形はもう邸には無かったが。
それが、何年も経ってから唐突に見つかり、気付けば手にしていた。
どうするつもりなのか自分でも判らないままに。
壊すわけでもない。
決して目に入らないわけではない、それも父の使っていた部屋に置いた。
何故――……
「りん……」
知りたかった、とでも言うのか。何を――……
「――ぅ…………」
不意に鼓膜を打った、幻聴のようなそれに殺生丸は我に返った。
見ると冷たい作り物の体は確かな温度を持ち、さっきの少女が現れた。
手を伸ばし、髪に触れると反応し、その黒い瞳を薄くあける。
「……あ、れ……? なんで……」
事態が呑み込めない少女の頭に、さっきの声がまた響く。
『――時間が切れる前に、自ら命を投げ出すとは……』
「どうして……」
『特別に、間に合ったことにしてやろう』
夜が明けるまでに、自分の名を呼んでもらうこと。ただし、名乗ってはならない。
できなければ、体は人間から人形に戻る。
そこに宿った《りん》という魂も、消えてなくなる。
それが、一晩だけ人間にしてくれる代わりに出された条件だった。
もしこれができれば、本当に人間になれるという。
でも、そんなことはどうでもよかった。
たとえ一時でもこの手足が動くのなら。
助けることが、できるのなら。
「あたし……人に、なれたの……?」
まだ頭がぼうっとして、よく判らない。
ふわふわ夢の中に浮かんでいるような感じだった。
でも。
「りん」
この声は、本当だ。
頬を伝う熱いものも、それを拭ってくれている、この手も。
「殺生丸さま……」
「何故、庇った……?」
「助けたかったから」
「何故?」
「好きだからだよ?」
小首を傾げながら、りんはさらりと返した。
当たり前でしょう? とでも言いたげに。
何かが、ゆるゆると融けていく。
いつの間にか、顔の筋まで緩んでいたようだった。
……やっと笑ってくれたね。
そう言った少女も、笑っていた。
【終】
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