目の前を人が通り過ぎてゆく。
たくさん、たくさん。
ある人は興味なさげに。
ある人は好奇の目を向けながら。
止まることなく流れる人々、あたしはただ座っているだけ。
透明な壁は冷たく聳えて、容赦なく世界を断絶する。
その向こうとは、ほんの少ししか距離は無い。
それなのに漂う空気もにおいも、何もかもが違いすぎて、あたしはそこに行けない。
ここに売られてから、もうどれくらい経ったんだろう……
――ドアの、開く音がした。
《お客さま》が来たみたい。
革靴でコツコツと床を鳴らしながら、ゆっくり、時々止まりながらこっちに近付いてくる。
やがてあたしの黒い目に映ったのは、目深に帽子をかぶった中年の――そこそこの身なりをした男だった。
「……これは珍しい」
「でしょう? 買った時は汚れてましたけど、ちょっと手入れをすればこの通り、可愛くなりましたよ。
どうです、たまには毛色の違ったものも良いのでは?」
「東洋、か」
「ええ。なかなかありませんよ、こういったモノは」
顎に手をやりながら、男はあたしをじろじろと頭の先から足の爪先までを観察する。
いやだ、いやだ。
そう思ったからではないだろうけど、結局男に買われたのはあたしの隣にいた子だった。
店の主は厄介者でも見るような目つきで――実際そうなんだろうあたしを見る。
そして詰るのだ。でもあたしは口をきけないから、何も言えない。
自分でも判ってる。
他の子達はきれいな金髪や明るい茶髪にレースの髪飾り、瞳は透き通った碧や蜂蜜色をしているのに、あたしは黒い髪に黒い目。
着ている服だってドレスじゃない、元々の市松模様の着物。
それでもさっきみたいに人目だけは引くから、半分客寄せとしてあたしはいるのだと。
……帰りたい。
漠然と、そう思った。
あたしをやさしく包んでくれていた曖昧な記憶。
銀の髪に金の瞳をしていた人と、あたしと同じ色をしていた人と。
霞んでしまった景色の中で唯一、鮮やかに残るぬくもりが時々恋しくてたまらなくなる。
あの場所は、もう、どこにも無いのに。
* * *
その日も、あたしは座っていた。
いつもと変わらない灰色の風景、その中に突然現れた光があたしを捕らえた。
蠢く雑踏の中で、真っ暗な空に煌々と輝く月の色を放つそのひと。
時間が、止まる。
――射られる。
眩しすぎる所為か、冷たく鋭い視線の所為か判らないけど、そう思った。
でも、そのひとはすぐに視界からいなくなってしまって、あたしはひどく落胆した。
そんな自分に疑問符を投げかける隙もないほどに。
……だから、幻かと思った。
いなくなった筈のそのひとが、今度はすぐ目の前であたしを見下ろしてることが信じられなくて。
何物にも染まることの無い闇一色のコートは足首まで隠れるほど。
さらりと流れる銀髪はそれによく映えて、眸の色も相俟って砥ぎ上げられた刀を思わせる。
(――《あのひと》と、同じ色だ……)
さっきよりもずっと近くにいるそのひと以外、何も見えなくなって完全に思考が停止してしまったあたしの耳を慣れた声が打ち、
そのひとの視線もそっちに向いて漸く世界は元に戻った。
「これはこれは……よくいらっしゃいました。こちらがお気に召されましたか? 流石、お目が高い……!」
身なりで冷やかしではないと判断したのか、主は媚びた売り文句を並べ始めたけれど、
投げるように寄越された紙の束に口の動きはすぐに止まった。
「足りなければ邸まで来い」
鬱陶しげに、一言。それで事は足りた。
驚きと共にみるみる喜色を浮かべた主は腰を更に低くする。
「い、いえ! とんでもない、ありがとうございます! それでは、少々お待ち下さいませ」
そう言ってあたしに伸ばされた手よりも早く、黒革の手袋を纏ったそのひとの手があたしを抱き上げた。
ううん、抱き上げたというより――小脇に抱えられた、と言った方が正しい。
「お客様? あの……」
「このまま貰う」
そのひとは返事も待たず、用は済んだとばかりにさっさと店を出て歩き始めた。
後ろの方で上機嫌な声が小さく聞こえた気がしたけど、耳には何も残らなかった。
しばらく行くと、大通りに出た。
あの店に売られてから外に出たのはもちろんこれが初めてで、何もかもが珍しくて心が弾む。
毎日ただ眺めていた無機質な風景がこんなにも鮮やかなのは、きっとあそこから出られたからだけじゃないと思う。
信じられないけど、今あたしを包んでくれている手は幻なんかじゃない。
手袋を通しても、こんなにはっきりとぬくもりが伝わってくるんだから。
見上げる先には、素知らぬ顔で歩くあたしを買ってくれたひと。
その向こうには随分久しぶりに見る空が広がってて、傾きかけた陽に透ける銀髪は光となって降り注いでいる。
眩しすぎて、表情がよく判らないぐらいだった。
それでもずっと見つめてるけど、このひとは店を出てからは一度もこっちを見ていない。
まるで、あたしなんて最初からいないみたいに冷淡で……でも、何故かとても安心できた。
大丈夫。
そう、思えた。
それは、自分を買ってくれた事と手のぬくもりだけを理由にするにはあまりにアンバランスだったけど。
驚く暇もないぐらいあっという間に起きた出来事に、あたしは戸惑いよりも喜びを感じていた。
心に長い間被さっていた埃は、このひとと視線が絡んだ瞬間に吹き飛んだのだ。
歩を進める度に伝わるかすかな揺れに心地良さを覚えながら、あたしはひたすらその横顔を見つめ続けた。
揺り篭のようなそれがぱたりと止んで、どこかに着いたことを知った。
と同時に、目の前の光景に言葉が見つからない。
たとえ自分が声を持っていたとしても、何も言えなかったことに変わりはない……と思う。
お金持ちなんだろうという考えは漠然とあったけど、具体的には何も判っていなかった。
正面には優美な曲線を絡ませた、一見華奢のようで重々しい鉄製の門扉。
それを中央に敷地を囲んでいる高い塀は威圧感たっぷり。
キィ、と金属の擦れる音を立てて門をくぐると石畳の小径がまっすぐ伸びている。
左右に広がる庭をぼんやり眺めながら、なんで玄関までこんなに距離があるんだろう、と思わずにはいられなかった。
だんだん近付いて、視界いっぱいに聳え立つ邸は決して華美な装飾が施されているわけじゃない。
それでも、というか、だからこそ有無を言わせない迫力があり、歳月を経てきたものだけが持ち得るその重厚さは傲岸でもあった。
――ふと、頭の奥底で何かが蘇る。
(あたし……ここを知ってる……?)
既視感というにはあまりに頼りないそれは、扉の開かれる音ですぐに掻き消えた。
「お帰りなさいませ。今日は歩いて戻られたのですか? さぞお疲れで――」
出迎えた老人の言葉はそこで途切れた。
恭しい笑みは驚愕に引き攣れ、眼を剥いた先は……抱えられて宙ぶらりんになったままのあたし。
「あの……、《これ》は……?」
「買った」
「はっ……?」
硬直の後、やっとのことで絞りだした声に返されたのはまたしても抑揚のない一言だけだった。
さっきは店の主だったからだろうと思ったけど、このひとは誰に対してもこんな風なんだろうか。
コートを受け取るのも忘れ、石と化した相手を残してさっさと階段を上がっていく。
角を曲がり、いくつものドアを通り過ぎて辿りついた一つの部屋。
ノブに伸ばされた手が一瞬止まる。
その顔にほんの少し翳りが見えたのは、僅かに射し込む斜陽の所為なのか判らなかった。
静寂の中、ゆっくりとドアを開ける音が何かの宣告のように重く響く。
もう殆ど沈みかかっている夕陽は茜に薄紫を滲ませていた。
それが射す部屋は仄暗いけれど、置かれたテーブルや椅子にぶつからずに済むだけの光量はある。
常に人がいるような気配はないから、今は使われていないのだろう。
でも空気は澱んでおらず、ちゃんと掃除が行き届いていることも、窓際に置かれた椅子に座らされて判った。
その時、店から出て初めてそのひとと目が合った。
……きれい。本当に、きれいなひとだと思った。
あそこにいた女の子達もみんな可愛くて美人だったけど、全くの別物だ。
男も女も関係ない、他と比べることすらおこがましいほどで、長い睫の一本に至るまで全てが完璧で――格が違う、とは多分こういうことを言うのだろう。
もっと、ずっと見つめていたかったけど、そのひとはすぐに行ってしまった。
一人で置かれた途端に部屋の中は光を失い、窓の向こうでは星々が瞬き始める。
想うのは月。
どうして、そんな苦しそうな眸をするの?
あたしなんかじゃ、笑わせてあげられないの……?
でも、だったら、どうして――……
【続く】
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