『Katharsis〜中編〜』





「わ……」
そこに昨日まで無かったものを認め、りんは短い感嘆の声を上げる。
自室に戻ってから、程なくやって来たメイドに連れられた先は居間だった。
きれいな三角形のシルエット。
左右対称に伸びた緑は葉というよりも針に近く。
まだ細い幹はごつごつとした樹皮に覆われ。
背はりんより少し高く、裾の枝葉が広がった形なので余計大きく見える。
その姿は尊大でさえあるのに、ちょこんと小さな鉢に納まっているのが何だか可笑しい。
必要なものだけが整然と配置された空間で、不釣合いにも思えるそれは。
「えっと…これ、樅の木……?」
「ええ、クリスマス・ツリーです。先代様がご存命の頃は毎年飾られていて、木は今も送られては来るのですが……」
語尾をぼかし、彼女は曖昧に笑う。
おそらく殺生丸が好まないのだろう。でも、それなら――
「……いい、の? 勝手に飾っちゃっても……」
「はい、お許しを頂いてきました。……今年は、去年とは違いますからね」
そう言って、意味ありげな視線と笑みを向けられたりんは首を傾げたが、彼女からそれ以上の説明はなかった。
ただとても楽しそうなので、りんも聞くのをやめて目の前の木へと意識を向けた。

真っ赤なミニチュアのリンゴ、色とりどりのキャンディケイン(杖形の飴)や蝋燭が緑一色のカンバスを彩っていく。
色が加わると共に完成へと近付き、不思議な高揚感に心が躍る。
おもちゃを組み立てる楽しさ、というのはこういうものなのかも知れない。
ここに来る前、あの店にもツリーが置かれていたがとても比較にならないほど立派だ。
……でもそれよりもっと前に、これに似たツリーを見たような気がする。
しかも、この邸で。
そんなことある筈が無いのに。
自分がここにいるのは殺生丸さまが買ってくれたからで、その前は店にいて、もっと前は違う店にいて、そのまた前は……判らない。
どんなに記憶の糸を手繰っても、いつも途中で判らなくなってしまう。
埋もれた先を必死に掻き分けても、断片的な像が浮かんでは消える。
それは無理やり封じられた記憶ではなく、色んなことがあって、色んな所へ行くうちに少しずつ砂に覆われて、やがて見失ってしまったもの。
風化だ。
だから思い出せないだけで、自分はここにいた事があるのかも知れない。
褪色した風景の中でも確かな光を放つのは、殺生丸さまと同じ色。
でも、殺生丸さまじゃない。
あれが誰なのか思い出せたら、堆積した砂が全部取り払われるかも知れない。
そうしたら、こわくなくなるかも知れない。
殺生丸さまにも、ちゃんと訊けるかも知れない。
後ろが見えたら、きっと前も見えてくる。

「――さ、これで最後です」
手渡されたのは頂点に位置する、銀色の天使。
腕を伸ばして先端に取り付け、二人で白いクロスをかけたサイドテーブルに乗せる。作業終了、クリスマス・ツリーの完成だ。
少しでも身体を動したおかげか、気分はさっきよりも晴れている。
その後も彼女を手伝い、空箱を片付けに物置へ向かった。
一度も入ったことがないので、つい周りを見回してしまう。
随分と広く、古い調度品などが並べられ、時が止まっているような錯覚を起こさせるその部屋。
物置というよりも、ちょっとしたコレクションルームといった方が似合いそうな。
視線を巡らせるりんの目が、ある物に引き付けられた。
隅の衣装ダンスの上に置かれ、完全に周囲と同化しているそれは目立つ要素など何も無い。
呼ばれたのか、それとも呼んだのか。
半ば無意識に歩み寄り手に取ったそれは、写真立て。
楕円に縁取られた肖像は、りんと同じ年頃の少年と父親らしき男性。
憮然とした少年の肩を引き寄せ、無邪気ともいえる笑顔を向けるその人は。
「っあ――」
突然、膨大な映像がりんの中に雪崩れ込んできた。
ばらばらだった破片が物凄い勢いで繋がれていく。
激しいサブリミナル。
情報量が多すぎる。頭も心もついていかない。止まらない。

あたしが作られた国。
家には女の人。
船の中。
違いすぎる場所。
笑う顔と睨む顔。
まっくら。
そして――涙。

重なり、重なり続けた色は、最後に真っ白になった。
力が抜ける。バランスを失い、頽れる身体。
かたん、手をすり抜け、音を立てて落ちたのは戻らない日の残像。
砂の中から現れた記憶はりんを導くこと無く、影を深くするばかり。
「――……!」
遠くの方で声が聞こえ、りんは重い頭を持ち上げた。
「――大丈夫ですか!? ああ返事はなさらなくて結構です。貧血でしょうか、とにかく人を呼んで来ますから動かないで下さいね!?」
急に座り込んでしまったりんに、彼女は過剰なほど狼狽えていた。
貧血などではない。立てる。歩ける。行かなくては。
「待って! ごめんなさい、大丈夫だから。何でもないの」
「でも……」
「ほら、ちゃんと立てるし貧血じゃないよ。ちょっと躓いちゃっただけ」
「……本当に? 怪我はありません?」
「うん、驚かせてごめんなさい。――この写真、殺生丸さま?」
「ええ……旦那様と先代様です。六、七年ほど前でしょうか」
「……そっか。あの、訊きたいことがあるんだけど――」



りんは走った。
廊下をひたすら、あの夜のように。
邪見からはよく走るなと怒られてるけど、今はどうでもいい。
腕に持つのはあの写真立て。
頭の中では同じ問いが繰り返し繰り返し、りんを苛む。
――どうして? 殺生丸さま……どうして。

向かった先は書斎。そこにいると、聞いたから。
走る勢いそのままにドアを開けると、そのひとは居た。
大きな机がある反対側、簡単な応接セットが置かれたそこに。
天鵞絨の一人掛けソファに腰掛けて、ぱらりと本の頁を繰るその姿は突然の闖入者にも驚いた様子など全く無く。
窓から射す光で、眼鏡の奥にある表情は見えない。
早鐘を鳴らす心臓が張りつめる。
最初の言葉が、出てこない。

「――……随分と、無作法だな。ノックもしないとは」
「っご、ごめんなさい……あの、教えてほしいことが、あって……」
上擦った少女の声に漸く手を止めた男は、本を前のテーブル――大きな包みの傍らに置いた。
眼鏡も外して目線を合わせようとしたが、少女の手にあるものを認めて双眸は少し険を含んだものになる。
「何故それを?」
「今日、物置で見つけたの。……あのね、あたし、思い出せなかったの。ずっと前にもこのお邸にいたような気がしてたんだけど、曖昧ではっきりしなくて――」
逸る心を抑え、出来るだけ普通にと努め、りんは言葉を繋げた。
思い出したことを順番に。
最初にいたのはここじゃない国で、その家には女の人が住んでいたこと。
とても優しくてきれいな人だったこと。
そこには銀の髪と金の眸をした男の人が来てたこと。
ある日船に乗せられて、着いた先がこの邸だったこと。
可愛がって貰えたけど、同じ色をした少年には睨まれてばかりだったこと。
気候の違いでヒビが入り、連れられて戻った国で修理に出されたこと。
それから……
「女の人ね、泣いてた。自分の所為で、あの人を死なせたって。その後は――」
「だから何だ? わざわざそんなことを言いに来たのか」
もう良いとばかりに言葉を遮った殺生丸の眸はずっと静かなまま。
ああ、とりんは認識した。
「……やっぱり、最初から判ってたんだね」
「当然だ」
でも、だったら。
「…………殺生丸さまは、どうしてあたしを買ってくれたの?」
嫌っていたのなら、どうして。
「――理由が必要なのか」
心なしか、だんだん不機嫌になっていく声。
裡で響く警告を振り払うように、りんは小さく頷いた。
溜め息がひとつ、聞こえた。
「ならお前も答えろ。今は好きにさせているが、何かと仕事をしたがるのは何故だ? 私は命じた憶えは無い」
ぎゅっと唇を噛みしめた少女は、答えない。
「りん」
――人形に垂れ下がる、細い細い操り糸。
「……役に、立ちたいから……」
――四肢へと繋がるそれに、鋏の刃が据えられる。
「浅薄だな」
――冷たく光を反射する銀は。
「最初から、お前にそういうことは期待していない」
――ああ、このひとと、同じ色。


どうやって、部屋に戻ったのかは憶えてない。
でも、少なくともドアを閉めるまでは泣かずに済んだ。
役に立ちたい、その気持ちは本当で嘘はない。
自分に出来ることなんて、殆ど無いということも判っている。
人形は、飾られて遊んで貰うのが存在理由。
人間になった自分は、その用を為せない。
人間としての用も為せず、それを求められてさえいない。
理由が、どこにも無い。それは、立つ場所が無いのと同じこと。
壊れた玩具は捨てられる。
なら自分も同様だろう。
――過ぎた場所だった。それだけの、こと。

がらんどうになった部屋。
窓の外では、つめたい夕闇が空を呑み込もうとしていた。

【続く】


「小説」へ トップへ