『Katharsis〜前編〜』





ぴん、と張りつめた冷涼な空気をやさしい陽差しが撫でている。
どこからか、積もった雪が枝を滑り落ちる音がする。
厳しい冬を一時和ませる穏やかな午後だ。
目を細めて窓の外を眺めていた老人は、不意に届いた騒々しい物音で束の間の休息を破られた。
視線を廊下の向こうに移して溜め息をひとつ。何が起きたのか、大体の想像はついた。

ドアを開けた先の光景は全く予想通りで、邪見はまたしても重い息を吐いた。
「あ……ご、ごめんなさい……!」
邪見に気付いた少女が申し訳なさそうに頭を下げる。
その足元には割れたカップが散らばり、琥珀色の液体が絨毯に大きな染みを作っていた。
「またか……」
「ごめんなさい、すぐ片付け――」
「ま、待て! お前はいい、触るなっ!」
宙を突く鋭い破片に手を伸ばそうとした少女を、邪見は慌てて止めに入った。
それは怪我をさせない為であったが、心配しているのはどちらかと言うと自分自身。
……主の機嫌が、悪くなるような気がするのだ。
理由は何となくとしか言えない。
いや、あると言えばあるのだが、その事象を未だに現実として受け入れきれていない、というか。
そもそも、今この少女が《少女》として在ること自体が有り得ないことなのだから。

少々癖のある、柔らかな光沢を湛えた黒髪。
今は俯いて見えない瞳は大きく、黒曜石の如く煌いて。
白くて細い手足は作り物のようでも、ほんのり差した桜色が確かに血の通っていることを示し。
――そう、生きている。
心臓は脈打ち、意思を持ち、傷つけば血を流し、確かに生きているのだ。
珍しいところと言えばそれらの持つ色素くらいだが、それもこの国の中でのこと。
つまりは、何の変哲もない少女。
それを、しげしげと改めて眺めやる。
……未だに、信じられない。
くすくすと、忍び笑いが漏れた。
「邪見様、年頃の女の子をそんな風に睨むものではありませんよ? 嫌われちゃいますから」
「べっ別に睨んでなどおらんわ! 手間のかかる小娘に呆れてるだけじゃ!」
「ほら、またそんな事仰って。熱くて驚いただけなのに、可哀相です」
「もう二ヶ月だろうがっ!?」
「まだ、二ヶ月です」
かちゃかちゃと手際よく片付けていく、終始にこやかな口調のメイド。
目下の人間に言い負かされる自分。
それから文字通り東奔西走したこの二ヶ月間を思い起こし、がっくりと頭を垂れた。
ある日いつものように出勤してきたら、昨日までいなかった少女に突然おはようございます、と言われた使用人たち。
驚愕と混乱の矛先は全て自分へ向けられ、同じ説明を何度したことか。
諸々の始末をした後、一晩中練った言い訳はかけた時間と比例しないお粗末なものだったが、逆にその単純さが良かったのか疑う者はいなかった。
哀れな境遇に同情して泣きだすメイドまでいたほどだ。
たとえ疑問があるとしても、主の意がそれなら是非もないことだと承知しただけかも知れないが。
そんな使用人たちへの対応に追われながら、生活に必要なものを手配し。
その間も主の様子は何も変わらず、それとなく助けを求めたが悉く無視された。
少女に関しては、あの夜に一言。
――風呂に入らせろ。
ただ、それだけ。
だがそれが、全ての肯定を意味していたのだ。
考えが読めないのはいつものことだが――本当に、一体何を思っておられるのか。
……何だか、どっと疲れが圧し掛かってきた気がする。
肩が異様に重い。

「……あ…あの……ごめんなさい……」
現実から逃げたくなったその時、か細い声が耳を打ち。
緩慢に首を動かした先には、何回目かの謝罪を口にする少女。
老人の憔悴ぶりにあらぬ責任を感じたのか、今にも泣きそうなその顔。
邪見は、うっ、と息を詰まらせた。
何故、自分が罪悪感を持たなければいけないのか。
ちらっと横を見れば非難めいた目とぶつかり、ますます居心地が悪くなる。
長居は得策ではないと判断した邪見は、そそくさと部屋を後にした。
もちろん、これからは気をつけろよという小言は忘れない。

「――そんなに気になさらなくても大丈夫ですよ。ああいう言い方なだけですからね」
さ、着替えましょう、とドアをずっと見ている少女にかけられた声は穏やかで、どこか面白がっているようだ。
新しく出された服はシェルピンクのワンピース、その上にピナフォア(エプロン)をつけて着替えは完了。
促されて椅子へ戻ると、淹れ直された紅茶がテーブルの上でほのかに湯気を立てていた。
そうっと手に持ち、覗いたカップの中はさっきよりも淡いクリーム色。
「今日は冷えるのでいつもより温かくしたのですが、驚かせてしまい申し訳ございません」
「ううん、いきなり飲んじゃったあたしが悪いから。ちゃんと、言ってくれたのに……」
いつもより、と言っても火傷するような温度ではない。
むしろ普通なら物足りないくらいだろうが、まだ赤子同然の舌には刺激が強かった。
それでも大分慣れてきたつもりで、だから。
こくん、と口に含めば多めに入れられたミルクと砂糖、それから茶葉の香りが優しく少女を宥めてくれた。
「……あの、」
「はい?」
「今日は、何か手伝えることない?」
「うーん…そうですねぇ……」
問われ、彼女は思案する。
主が引き取ったという少女から、こういう事を訊かれるのは初めてではない。
最初は当然ながら面食らった。
主に引き取られたということは――年齢的に見れば兄妹と言った方が適切だろうが――おそらく、養女のようなもの。
つまり、使用人である自分にとって少女は仕えるべき対象。
その相手に仕事をさせるなど以ての外だ。
いくら可愛らしい顔で頼まれても無理というもの……なのだが。
あまりに真剣なその様に断ることも出来ず、邪見に相談したところ、返ってきた答えは意外にも。
――好きにさせろ。
主に伺いを立てたらそう言われた、と溜め息交じりに伝えられた。
こうして無事に許可が下り、手習いも兼ねた裁縫などをするようになったのだ。
特に植物の世話を好んで、どんな色の花が咲くのかと話しながら植え付けをする少女こそ花のようだった。
さて、今日は。
「……あ、そういえば……」
「なに?」
「ひとつ、あります。お手伝い願えますか?」
そう言うと少女は内容も訊かず頷いて。
まるで、おもちゃを与えられた仔犬のようだと思いながら、仕事の片付けと準備をするから二時間後に来ると付け足した。
少女にとって、格好の遊びになるだろう。
良いことを思い出した彼女の頭の中は既にそれでいっぱいだ。
だから、気付かなかった。
笑う少女に潜む、影。
揺らぐ眼差しで見つめる先は退室する彼女が押すワゴン。
そこに乗せられた、ほんの数分前までカップだったモノが鋭利な光を放つ。
叫びのようなそれが、どうしてか目に焼きついて離れない。
綺麗な花が絵付けされた小さな美術品。
丁寧に磨かれ、誇らしげに棚に並んで。
用を為せなくなれば、捨てられる。
見向きもされず、あっさりと、無残な姿を匿われることもなく。
どうして?
知れたこと。
―――モノだから。

さっきと全く同じ柄のカップを持つ手に力が篭もる。
水面は曖昧に揺れるだけで、何も映し出しはしなかった。


    *    *    *


さく、さく、さく。
柔らかな白絹を纏った世界に、細い筋が伸びていく。
あのまま部屋にいるのが何となくいやで、足を向けた庭。
元々の広さが一面の雪で余計に強調されたそこには、自分一人。
塀の近くまで歩いて振り向くと、あの日と同じように邸は厳然とそこに在る。
不思議なものだ。
こんなに立派で、大きくて、圧倒されるここが自分の家になっている。
……でもこの邸は、外見を裏切って中はとてもあたたかい。
目を閉じて反芻するこの二ヶ月は戸惑いと驚きと、それを上回る幸せに満ちていた。
不満など何も無い。あるわけが無い。
でも、だからこそ――こわくもあった。
こんなにたくさん貰って、与えられて。
それに見合ったものを返せないことが。
空回るばかりで、それでも笑ってくれる皆が。
何も言わず、黙って傍に置いてくれるあのひとが。
……違う。
あのひとが、こわいんじゃない。
こわいのはその先。
前に進むことも、引き返すことも出来ずに立ち竦むだけの人形。
そんなモノが、一体、いつまで。
見上げる闇、閉じた瞼の向こうから白い光が突き刺さる。
このまま足の先まで貫いて、染め尽くされれば。
何も無いところへ戻ったら。
……なんて、我が儘なんだろう。

「――りん」

ど、くん。
心臓を掴まれる、静かな低い声。
ざわり。
膚が粟立つ、雪を踏みしめる音。
気付かれないように深い息を一回、二回。
意識して、できるだけゆっくりと目を開けて顔を動かす。
ちゃんと笑えているだろうか。
「――……お帰りなさい、殺生丸さま」
「何をしている」
「ちょっと、散歩してただけ。雪も止んだし」
「ならコートを着ろ。……温度を感じないわけではあるまい」
最後の言葉に、少女――りんは少し目を丸くしたようだった。
すぐに、次からそうすると言って微笑んだが。
何も不自然なことを言った覚えはない。
殺生丸はほんの僅か眉を顰め、痛々しい赤に染まった頬に触れた。
「……冷たい」
手袋越しでさえ、判るほどに。
突然触れられて今度こそはっきりと見開かれた目、何事か言いかけた唇に背を向け、冷えきった手を己のそれに封じ込める。
そのまま歩き出せば躊躇いがちについて来たが、意志を示さない手はひどく頼りなく、殺生丸は知らず握る手に力を篭めた。
玄関まではすぐ。
その、間だけの。

「……殺生丸さま」
「何だ」
「殺生丸さまは、どうして――」
かすかに震えながら絞り出された言葉。
しかしそれは、第三の声によって遮られた。
「殺生丸さま! そのような所に――って、りん!? またお前、は…っ!?」
小言を繰り返そうとした口が、そのままの形で固まった。
それは主が少女の手を引くという信じがたい光景の為か、雪も凍る視線の為か、それとも両方か。
その脇をすり抜けながら殺生丸は続きを促したが、りんは噤んだきり。
追求する気もなかったので、場に流れるのは沈黙だけだ。
唯一繋がる手も、玄関に立つと同時に解かれてしまった。
「――邪見。いつまでそうしている、さっさと用件を言え」
「……えっあ、はい! あの、殺生丸さまへ速達が届いておりまして――」

遠ざかる後姿。
温度が離れ、痺れにも似た感触だけが残った手。
それだけは消えないように、りんはもう片方の手でぎゅっと包み込んだ。

【続く】


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