コツコツと、灰白色をした石造りの廊下を歩く足音。
右側には格子戸が規則正しく並び、左側には太い柱が同じように立っている。
柱の向こうは長方形の中庭になっており、植わった桂花が早くも芳香を放っていた。
白い石畳が山吹色の花で彩られる日も近いだろうが、足音の主はそんなことに全く関心がないらしく見向きもしない。
陽光が差し込む庭を過ぎて途端に暗くなった廊下を進み、階を上って角を曲がり、目的の部屋に着くと声もかけずに戸を開けた。
「――随分と無礼だな」
「堅いこと言うなよ、俺とあんたの仲じゃないか。それに、今や俺もこの西架(さいか)の街の代官様だ。久しぶりに帰ってきた太司様とゆっくり話がしたくて、つい気が急いちまっても罪にはならないだろう?」
「相変わらず、よく口が回る」
咎める言葉の割には声の調子が軽い。
露台に立って外を眺めているから顔は見えないが、機嫌はいいようだ。
戸を閉めて歩を進めながら文机に目をやると、積まれた書の中に見慣れない、やけに古くさい一冊があった。
それは優先事項であるはずの書類を押しのけ、机の真ん中に居座っている。
「何だい、これ」
問われ、男はそこで初めて振り向いた。
腰まで届く黒髪を高い位置で一つに結わえてはいるが、あとは自然に独特の波を描いた髪を遊ばせている。
官位ある者の正装である、ゆったりとした作りの袍は袖幅も広く、それを優雅にさばきながら片笑んだ。
「見てみろ」
もったいぶった返答は随分と愉しげだ。
いつもどこか不気味な含み笑いを絶やさない男ではあるが、今日は本当に上機嫌らしい。
「……史書……いや、ただの神話か? 物の怪がどうとか書いてるし」
「神話、というには新しすぎるがな。西架の伝承をまとめた書だ」
「ふーん……要するに出所不明の民話だろ? おとぎ話に興味があったとは意外だね」
男が言った西架とは、西架の街だけを指したものではない。
十二の街の名はそれぞれが治める地名にもなっており、西架は国の西端の、国境である山脈に沿って南北に長い地方全体の名だ。
当然その中には入らずの森も含まれている。
――実質的な支配が、及んでいないとしても。
「森について、書いてあるだろう」
「森って……あの入らずの森かい? そんなの一言も無いぜ−? 書いてあるっつったら、」
「月涯(つきはて)の森」
言いかけたその名を先に被せられ、書に落としていた視線を上げると男の笑みは更に深くなっていた。
口角を上げ、しかし眼光は鋭く、底の知れない昏い焔を隠そうともせず。
明るい陽射しを背にしていながら――いや、だからなのか、男はまるで他と隔絶された闇そのものに見える。
太司の位に与えられた色である濃藍の袍も、今はただ黒い塊にしか見えない。
常人ならば竦み上がり、指一本動かせなくなってもおかしくないほどの不気味さと威圧感。
だが男に拾われ、そこそこ付き合いの長い相手は肩で息をひとつ吐いただけ。
とても神様に仕えていたとは思えないねえ、などと心中で呟いていた。
「で? その月涯の森がどうしたんだい?」
「入らずの森の、元々の名だ」
「へえ……で?」
答えになっているようで全くなっていない答えに、目的の見えない会話。
自分が始めたとはいえ、そろそろ痺れを切らして半ば投げやりに問うた。
「琥珀を知っているな?」
「……は?」
だが、返ってきたのはまたしても脈絡のない、しかも問いかけ。
何のことか判らないながらも、あの真面目で純朴な従者の顔を思い浮かべてみる。
「昨日、あれが面白い話を持ってきた」
「あいつって、里帰りしてたんじゃなかったのかい」
「それが一晩で戻ってきた。妙に慌ててな」
その時の様子を思い出したのか、僅かに忍び笑いを漏らした。
「そして戻ってくるなり、わしに頼みがあると言って頭を下げてきたのだ」
――お願いします。
――大事な、幼馴染みなんです。
――どうかお力を……!
「言われたことを忠実にこなすだけの、ただの犬だと思っていたが……使いようによっては、案外役に立つかも知れん」
「そりゃよかったね。何を言ってきたんだ?」
「お前の言う“おとぎ話”も、全てが作り話ではない、ということだ」
「……ああ、ここでその話に戻るわけね」
「そろそろ動く。判っているな? ――白夜」
「もちろん。あんたに拾われた身だからね、精々働かせてもらうよ」
期待通りの答え。
満足そうに頷いた男は、再び外へと目を向けた。
気持ちよく晴れ渡った空の下には街が広がり、忙しなく行き交う人々が小さく映る。
本当に虫のようだな、と大した感慨もなく思った。
街の先には、畑や小さな森がなだらかな地平線までずっと続いている。
このすべてが、今は自分のものとなった。
だが足りない。これぐらいでは、まだあそこには程遠い。
海を抱きし東の耀都(ようと)。
この国の中心。そして……
「……白夜」
「ん?」
「琥珀を呼べ」
「了解」
主とは対照的な真っ直ぐに伸びた黒髪、高く結ったそれを軽やかに翻して白夜は執務室を後にした。
残ったのは、最初と同じひとり。
「ふっ……妖と人、か……ではもう一度、“おとぎ話”を演じて貰うとしよう」
視線は遠く東の果てを射たまま、見えない何かを見るように、眼を細めた。
程なくして、白夜は琥珀を連れて戻ってきた。
緊張と不安の入り混じった表情が、ぱっと弾ける。
「ほ、本当ですか……!?」
「無論だ」
「――っありがとうございます!」
深く頭を下げた青年の瞳には、喜びと感謝と、全幅の信頼しかない。
退室する際にも、何度も礼を繰り返した。
まったく、滑稽だった。
そしてまた、新たな足音が近づいてくる。
「――誰だ」
執務室の前で止まったその音。
誰何の声に、相手は戸を開けることで答えた。
「久しぶりですね、奈落」
【続く】
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