『入らずの森・4』





男はにこやかな笑みを浮かべていた。
後ろからはかすかに舌打ちが聞こえた。
空気は一瞬で張りつめた。
おおよそを察した白夜は横の壁際に下がりながら嘆息する。
初めて見る顔だ。奈落とどういう関係かは知らないが、少なくとも仲が良いとは言えないらしい。
「なかなか良い執務室ですね。静かで広々として……ああ、その露台からの眺めもよさそうだ。東向きで。……出世しましたねぇ」
「おかげさまで」
部屋の主の許可も得ずに中央まで歩みを進めた男が、ぐるりと中を見渡す。
白夜と目が合うと嫌みのない顔で笑い、軽い会釈までよこした。
つられて頭を下げてしまった白夜は曖昧な挨拶を漏らしながら横目でちらりと主を見やった。
想像通り、ついさっきまで良好だった機嫌は見る影もない。
眉間にしわが寄っているとか睨んでいるとか、そういうことではなく、表情はまったく乱さずに纏う空気だけが見事に変質している。
冷たくこごったそれは、果たして敵意と呼ぶものなのか。
「……一体どうなさったんです? お忙しいでしょうに、このような辺境までわざわざお越しとは」
「ちょうど近くに用があったんですよ。せっかくなので、顔を見に」
「おひとりで?」
「ええ。ぞろぞろ連れ歩くのは好まないので」
「もう少し、ご自分の立場を考えられた方がよいのでは? 不用心が過ぎると思いますが」
「だからですよ。自分より弱い護衛がいても鬱陶しいだけですからね。旅は、身軽が一番です」
「――なるほど」
さらりと言ってのけた男に、奈落は口の端を歪めるように持ちあげた。

……いつまで立ち話してんだ、こいつら。
執務室に来客のための用意はない。
謁見の間は一階、正門から入ってすぐの、中庭に面したところにある。
さっさと人を呼んでそこへ通せばいいだろうに、一向に命じる気配はない。
かといって自主的に動くのも面倒だ。
そもそもこの男にしたって――装束からして巫祗だろうが、直接ここへ来ること自体が普通ではない。
客なら客らしく、通された部屋でおとなしく待っていればいいのだ。
ため息でもつきたい心境で、白夜は石床の規則正しい継ぎ目を眺めた。
隙間なく詰められた象牙色の正方形は、経た年数に反して傷みもなく美しさを保っている。
だが、他の部屋や廊下は重ねた歳月相応の佇まいだ。
白夜に与えられた部屋も文机のまわりは特に磨耗している。
ふと、自分と変わらない年齢でありながら世捨て人同然に隠遁の身にある青年が脳裏に浮かんだ。
会ったのは一度きりだ。
袍の上からでも判る細い体つき。結われることなく垂れ下がった長い髪。
何の感情も宿らない、無機質の微笑み――
「白夜」
呼ばれた声に残像が消える。
顔を上げると、奈落がほんの僅か視線を横に流した。
無言の命を受けとった白夜は、今度は居住まい正しく頭を下げて退室した。

「――彼があなたの代官ですか」
足音が聞こえなくなった頃を見計らい、弥勒が口を開いた。
さっきと変わらない穏やかな口調だ。
「そうですが、何か?」
「噂に上ってましたよ。ただでさえ西架に注目が集まっていた時でしたし、その上とても若いとくれば仕方ないでしょうね」
「あなたの時と同様に?」
ささやかな嫌みを、相手はにっこりと受け流した。
「……ま、あんまり目立つことは控えた方がいいと思いますよ。いらぬ誤解を招きますから」
「ご忠告、肝に銘じておきます」
「そう願いたいですね。――皇も、お若い身で大変な重責を担っていらっしゃる。それを少しでも軽くし、支えるのも臣下の務めです」
笑みを消し、噛みしめるように落とされた言葉が床を打つ。
外から流れる涼やかな風が背に触れ、男の長い髪を揺らした。
「重々、承知しております」
そう。
その為に。
紫黒の眼を細め、ようやく露台をおりた奈落は足音を響かせながら相手との距離を縮めていった。


白夜が戻ったとき、中には奈落しかいなかった。
「お客は帰ったのかい?」
執務机に頬杖をついたまま「ああ」と短く、ついでに鬱陶しげに答えが返ってきた。
どうやら最後まで歓迎する気はなかったらしい。
「で、何者なんだ? あいつ」
「元上司だ」
「それにしては胡散臭いっていうか……上司ってことは、結構高位なんだろ?」
「第二梯だ」
「は? 第二って……まさか大巫(たいふ)!?」
「ああ、恐れ多くも陽の巫女様の側近。年中お側に侍っていらっしゃる」
隠すまでもなく皮肉をこめて、太司となった男は嗤った。
第二梯。そして大巫。
あいつが?
貴族並みの身分を持つ巫祗たちの頂点、同じ位の大臣でさえ顔を合わせれば深く頭を垂れ、必要であれば皇にも意見する。
第一梯である宰相は名誉職、常に置かれるわけではなく現在はいない。
つまり、皇に次ぐ地位にあるのが大巫だ。
……だめだ、どうしても結びつかない。
「なんつうか、もっとこう……仙人みたいな爺さんかと思ってたよ」
「それは前任だ」
もっとも酒仙と言った方が正しいがな、と付け加えられた。
大巫という官位への認識を改めた方がよさそうだった。
それより、と立ち上がりながら奈落が本題へ話を移す。
「手筈はどうなっている」
「万端。いつでもいいよ」
腰に手をかけ、白夜は口角を上げた。
愛想でもなんでもなく、本当に楽しいのだ。
思いがけず生きながらえている自分には失いたくないものもなければ、これといった望みもない。
拾われた相手に使われるのも、まあ当然だろうと思う。
おまけに面白くなりそうなのだ、文句があるわけもなかった。
ひとつ気になるのは――
「しかし、本当にいるのかねー森の主なんて。誰も見たことないんじゃ肩すかし食うって可能性も……」
そう、肝心の妖がそこにいなければ話にならない。
「いる」
「え?」
「見た者ならいる」
自然な疑問に一片の迷いなくいつもと同じ笑みを浮かべるので、白夜はそれ以上問うことをやめた。
向かいあう奈落の後ろに覗く空はまだ青さを残していたが、雲はうっすら色づき始めている。
瞬く間に色彩は淡い茜へ、深い紅へと移り、すべてを染めるだろう。
それを視界から遮るようにゆっくりと奈落が近づき、白夜の横を通り過ぎた。
「お出かけかい?」
「前太司殿へご機嫌伺いだ」
再び脳裏に像が結ばれた。
「……じゃ、今日はこれで失礼しようかな。忙しくなるし」
軽く肩を竦めてみせた部下に、奈落は顔を半分だけ振り向かせた。
「――動くのはあの男が都へ戻ってからだ」
そう告げると共に、戸の向こう側へ姿を消す。
主のいなくなった部屋で、白夜は誰にともなく呟いた。
「御意」
その声は僅かなあいだ宙を漂い、霧散した。
やがてがらんどうとなった空間を占めるのは群青色の静寂。
東の空には夕闇が迫っていた。

【続く】


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