「では、いきなりすみませんでした、ありがとうございます!」
頭を下げ、青年は来た道を急いで走り戻っていった。
見る間に小さくなる背中を眺めながら、溜め息混じりに男が呟く。
「迂闊、でしたかな……」
あの後、もらったお守りの加護があったのかすんなり森を出られ、川の対岸にある村へ着いたのも日が傾きだした頃だった。
「それでは、お世話になりました」
「いえいえとんでもない! 巫祗(かんなぎ)様がお泊まりだというのに、大したおもてなしも出来ず、申し訳ありませんでした。
本当に何もない村でして――何卒、宜しくお伝え下さいませ」
どこか含みを持たせた言い回しと、へりくだった笑み。
それを軽く受け流して弥勒は村を後にした。
青空の下、まっすぐ伸びた街道はこの地方を統べる《西架(さいか)の街》へと続いているが、行き交う人は疎らだった。
その両脇に広がる畑では村人達が黙々と耕している。
何もない村、とは全くの謙遜ではないと一晩の宿を借りただけでも判ったが、受けたもてなしはそれに似合わない豪勢さ。
村長の言葉の端々にも、どうにかして取り入ろうという魂胆が透けて見えていた。
この国では、神祗官の最高位である《陽の巫女》の受ける神託が絶対の力を持つ。
皇(おう)を中心として、大臣と十二の街を治める十二人の太司達が政を行っているが、そこに神託が下されれば異を唱えられることは決して無いのだ。
よって、陽の巫女に次ぐ巫祗や巫女も、貴族と同等の身分にある。
その政との関係も当代では特に深いこともあり、滅多にない機会に村長が躍起になるのも無理からぬことだろう。
表面上の人当たりはいいこの巫祗は、ほどほどに受け、ほどほどに辞退した。
無論、あのことは口にしていない。
(……そういえば、名前を訊くのを忘れたな)
自分にしては有り得ない失態に、軽く苦笑する。
本来の目的はこれからだったが、思わぬ出会いのおかげで足取りは軽かった。
まるで、夢か幻であったような現実味のない話。
たとえ誰かに話したとしても信じる者などいないだろう。
だが、”お守り”は確かにここにある。
懐から出したそれを陽に翳すと、鮮やかな緑の花は黒く濃い影となり、眩しい光の中で闇一色に塗り潰された。
……何か事が起こらない限り、動く必要はない。
思考を終わらせ、懐にしまおうとしたその時だ。
すれ違った青年から唐突に声をかけられた。
――それを見せてくれ、と。
年は十六、七くらいだろうか。
抑えた色味の衣と裾を絞った短い袴という、ありふれた平民の服装ではあるがすっきりと乱れなく、農民には見えない。
いきなり何なのかと訝しんだが、息を切らしながらの、砂漠で水を求めるかのような切羽詰まった必死さに押されて差し出した。
そうっと手に取った青年は沈黙の後、押し出すように、やっぱり、と低く声を漏らした。
いつどこで、何故、と質問が相次いだがあの娘との約束がある。
迫力にたじろぎつつも、弥勒は何とかごまかそうとした。
「いえ、思い出の品でしてね。そう軽々しく……」
「お願いします」
「随分と、お急ぎだったのでは……」
「お願いします」
弁にはそこそこ自信があるのだが、痛いほど真剣な眼を向けてくるこの青年には話の矛先を変えようとしても通じない。
袖や袴から覗く手足は、細いでも太いでもなく程よく引き締まっている。
身を隠せる所はない一本道、捲くのは無理だ。
結局、旅先で口説いた女性にもらったのだと取り繕った。
「……巫祗様でも、女性を口説かれたりするのですか」
「まあ……不公平な話ですが、巫女と違って妻帯も許されていますので」
「……そうですか」
これ以上は無駄だと思ったのか青年は非礼を詫び、そこで弥勒は漸く解放されたのだった。
やがて豆粒ほどにも見えなくなると大きく肩で息をつき、同じ方向へと足を踏み出した。
* * *
仰いだ空は輝く緑に縁取られて、透き通るように青かった。
外からは陰鬱に見えるこの森が、中に入れば存外に明るいと知ったのはもう何年も前。
奥に進めば若葉色は木賊色へと深く薄暗くなっていくが、苔むす大木が閑かに立ち並ぶ中、木漏れ日が光の柱のように降り注ぐ光景は、初めて見た時言葉も出なかった。
都にあるという陽の巫女が住まう天宮でも、きっとここには敵わない。
大人五、六人が手を伸ばしてやっと一周するような巨木をいくつも過ぎて、少し開けた場所が見えた。
一旦立ち止まり、手をついた木肌はごつごつして少し冷たいけれど、じんわりと温もりが伝わってくる。
森に護られるように、館は在った。
石造りのそれは大きくはないものの、りんの暮らしていた村にあるものとは全く違う。
華やかさはなく寧ろ簡素な造りなのだが、落ち着いた象牙色の壁や床に一点も汚れはなく、館というよりは社のようだ。
――殺生丸さまの、なの?
――父が別邸として造らせたものだ。ずっと誰も使っていない。
――別邸? ……ってことは、本当の家があるの?
――西に、な。だがどうでもいい事だ、戻るつもりもない。
この森は国の西端にあるから、更に西ということは隣国だろうか。
東に海を抱く翠珠の国は《東雲の国》とも呼ばれる。もっと、遠い場所かも知れない。
そんな所から、殺生丸はどうしてここへ来たのだろう。
初めて会ったときから、最初から殺生丸は森にいて、あの噂だって昔からの言い伝えだと親に聞かされていた。
りんには想像もできない長い間、この広すぎる森で、たったひとりで。
何を見て、何を思っていたのだろう。
妖は優に数百年生きると聞いたけど、それでもやっぱり寂しいんじゃないかと思う。
幹から手を離し、柔らかな草を踏みしめて陽の当たるところへ出た。
殺生丸は、中に入るでもなく壁に凭れて腰を下ろしている。
片膝を立てて腕を乗せ、瞑目している。
あの日も、同じようにして大きな木の根元にいた。
それからもずっとそこにいたから、館があるなんて知らなかった。
――まさか、ここを使うことになるとはな。
――え?
――まあ、良い。私は私だ。
意味がよく判らなかったけど、自分が立ち入ってはいけないような気がして問うことはできなかった。
その横顔はいつも通り感情を表すことはなかったけど、ひどく優しい眸をしていて。
それをもっと見ていたくて、黙っていたのかも知れなかった。
すぐ前まで近づいても、あたしの影が身体を覆っても、このひとは微動だにしない。
ただ、あたしの中で、じっと。
(寝てるのかな……)
そんなわけないかと思いながら、でも、もしかしたら。
音を立てないように、そうろりと手を伸ばして、あと少し……
「ぅわっ!?」
急に強く腕を引かれて、がくんと体勢が崩れる。
前に倒れ、手をついたのは殺生丸の鎧のちょうど帯のあたり。
折れた膝は足の間に落ちて布越しに腿が触れあう。
顔が熱くなるのを自覚しながらも恨めしげに見上げれば、そこには思ったとおりの意地の悪い笑み。
さも面白そうに、口端を持ち上げていた。
「……何すんの」
「また水でもかけられてはかなわん」
「って、あれは、だって……」
強い視線を向けていた瞳が俯き、尖らせていた唇がもごもごと動く。
頭上で小さく笑う声がして、一瞬瞠目したりんはそのまま硬い鎧に頬をつけ体重を預けた。
殺生丸の笑い声なんて滅多に聞けるものではない。
りんは内心とても驚き、同時に嬉しかった。
火照った頬に冷たい感触が気持ちいい。
壊したくない。この穏やかさに揺蕩っていたい。
自分のしたことは判っている。
でも、決めたのだ。
生まれて初めて抱いた願い。
それがたとえ罪だとしても、と。
瞼を下ろせば、全身を包むぬくもりに澱は溶けて無くなった。
太陽は中天を過ぎている。
やがて空が茜に染まり、群青から紫黒へと沈んで月が道を辿れば、今日が終わる。
そうしたら、また明日が来るだろう。
仄暗い書庫の片隅。
並ぶ背表紙を滑っていた指が止まり、一冊を抜き取る。
角が擦り切れ、表紙も色褪せた霞色の分厚いそれはうっすら埃を被っていた。
月は無く、持ってきた燭台だけが唯一の光源。
小さな明かりはゆらゆら揺れて、文字を追う男の顔に深い陰影を形づくる。
整然とひしめく古書が支配する幽黙に、頁を捲る音が響いて消える。
「……月涯の森、か」
浮かび上がる薄い口元が弧を描き、くつり哂った。
【続く】
「小説」へ トップへ