いいかい、あの森へは絶対に行ってはいけないよ。
それはそれは恐ろしい物の怪が棲んでる森なんだ。
たった一歩でも足を踏み入れたら、二度と帰っては来れないよ。
最近でも一人、いなくなっちゃった子がいるんだから。
何でって……さあね、迷い込んだのかも知れないし、あれが欲しかったのかもね。
ああ、あの森にはもう一つ噂があって――……
それは暗黙の掟。
いつの頃からか囁かれ出した噂は密やかに、真白い布に落とされた染みのように、老人から幼子に至るまで人々の間へ浸透していた。
西の国境に鎮座する鬱蒼とした深い森。
街二つ、いや三つはすっぽり収まってしまうほど広大なそこは隣国との境界である山々を背に、禁域として長らく畏怖の対象となっている。
《翠珠の国》――その名が示す通り、この国は豊かな緑と清らかな水に恵まれているが、その森だけは異質だった。
人の侵入を拒むように太く高く伸びた木々は天を突き、太陽を遮るように幾重にも茂る枝葉は暗い蒼みを帯びてざわめく。
川を隔てていてもひんやりとした空気はどこからか漂い流れ、対岸にある村の朝は必ず霧に蔽われていた。
しかし人々を震わせているのは森自体ではなく、そこに棲むモノ。
姿を見た者はいない。
運の悪い旅人かよほど命知らずな者か、どちらにしろ無事に生きて戻った者は誰一人いないのだから。
未知なる恐怖は憶測を膨らませ、かたちを与え、そこにいるであろうモノを《森の主》と位置づけ、深く人々に畏れを根付かせた。
《入らずの森》
そう呼ばれるようになったのは、いつからか。
村の長老でさえ知らぬほど昔には、違う名であったらしい。
だが今となってはどうでもいいこと。
ほら、またひとり――。
「……いや〜……困りましたねこれは……」
頭の後ろをぽりぽり掻きながら、男は一人歩いていた。
どうやら迷い人のようだが、商人の類でないことは一目で判る。
男が身に着けているのは黒衣。神に仕える者の装束だ。
「はてさて……どちらへ行けばいいものか……」
呟いたが深刻さは微塵も感じられず、飄々とした風貌は能天気にさえ見える。
立ち止まり、ふむ、と顎に手をやって幽かに光が漏れる濃緑の天井を見上げた。
道すがらに強い気を感じ、つい立ち寄ってみた結果がこれだ。
噂は知っているが退治しようと思ったわけでもなく、あえて理由をつけるなら単なる好奇心。
大体、ここへ入った人間が帰って来なかったからといって《森の主》に喰われたとか惑わされたとは限らないだろう。
何か大物がいるのは間違いないが、こうして人間がうろついていても一向に襲ってくる気配はないのだし。
迷わせているのは……
「――この、地霊たちか」
そこかしこに浮遊し、木の陰から顔を覗かせる半透明の小さき者たち。
時折風や葉の擦れる音に混じって、くすくすと笑う声が聞こえる。
人間の子どもに近い形をとっている古い森や山にいる精霊だが、常人には見えないとはいえこれだけ明瞭なのも珍しい。
(まぁ、これだけ強大な気が満ちていれば影響を受けて当然、か)
でもどうせなら麗しい美女の姿がよかった、などとその立場にあるまじき想像を巡らせていると。
「こんにちは」
明らかに地霊とは違う生身の声が、突然耳に飛び込んできた。
慌てて眼前に意識を戻すと、ひとりの娘がにっこりと自分に笑いかけている。
(ほう、これは……)
麗しき美女、というわけではないが、少し目尻の上がった大きな黒い瞳、控えめに通された鼻筋に薄桃色の唇が愛らしい。
瞳と同じ色の髪は右の一房だけを結って、後は下ろしている。
その髪形は、少々子供っぽいにも関わらず不思議とこの娘にはよく似合い、すらりと伸びた四肢とも相俟って少女とも女ともつかない危うさを引き立てていた。
一瞬、今の状況も忘れていつもの口癖が滑りかけたが、男はぎりぎりで踏み止まった。
「……こんにちは」
とりあえず愛想よく挨拶を返すと、娘はもう一度笑んだ。
「迷っちゃったんでしょう?」
「ええ、まぁ……どうしたものかと途方に暮れていたところです」
「この森、広いもんね」
迷ったのは広いからではないのだが、そこは黙っておいた。
それより気になるのはこの娘。
まやかしかとも思ったが、どう見ても普通の人間だ。
一体、どうして。
「あのね、ここを左にまっすぐ行ったら川があるの。その流れに沿って歩いていけば日暮れ前には出られるから」
「――そうですか。ありがとうございます、助かりました」
尋ねようとしたが、それも止めた。
では、と踵を返そうとした男を娘が引き止める。
「待って、これあげる」
差し出されたのは、蔓で編んだ小さな花。
細い手の上にちょこんと乗せられた、五枚の丸い花びらが可愛らしい。
「お守りに」
「これはこれは、ありがとうございます。どこの護符よりも効きそうですよ」
恭しく受け取った男に、娘は嬉しそうにしながらも躊躇いがちに付け足した。
「それから、あの……あたしのこと、誰にも言わないでいてくれる?」
「ええ、こんな美しいお嬢さんが噂になっては大変ですからね。……絶対に、誰にも言いませんよ」
男は最上級の笑顔でそう答えると娘の後方をちらりと見遣り、軽く会釈して示された方向へと去っていった。
やがて足音も聞こえなくなり、後には娘ひとりきり。
――いや。
「……帰るぞ、りん」
「あ、来てくれてたんだ」
不意にかけられた声に驚きもせず、振り向いたりんは無邪気に笑う。
相手は駆けてくるのを待たずにさっさと歩き出してしまったが、すぐに追いついた。
「よかったね。あのひと、無事に出られそう」
「くだらん」
「……くだらなくはないと思うけど……殺生丸さま、怒ってる?」
「何故」
「えっと……言うこと聞かなかった、から……?」
「怒ってなどいない」
「そう?」
――不機嫌な顔、してるけど。
まぁいいか、と相変わらずな横顔を眺めていると目が合った。
りんは笑い、殺生丸は溜め息をひとつ吐いたがふと足を止めて振り返り、ざわざわと揺らめく薄い闇の奥を睨み据えた。
「……殺生丸さま? どうしたの?」
「――いや」
だがすぐに目線を外し、何でもないように歩き始めた殺生丸に首を傾げつつ、りんも後に続いた。
誰もいなくなり、再び静寂が訪れた森の奥。
冷たい風が、無言の裡に吹き過ぎた。
【続く】
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