『Chocolat 〜前編〜』





シワ一つない真っ白なテーブルクロス。
オレンジ色の光を灯す壁際のランプと、揺らめく食卓の蝋燭。
淡く照らし出される皿からは温かな湯気が立ち上っている。
今夜の献立は前菜とインゲン豆のスープに始まり、ヒラメのフライ、それから仔牛肉のローストにラディッシュソースを添えて付け合わせはジャガイモとブロッコリー。
いい色に焼けているパンは割るとふわふわで、小麦の香りがほのかに漂う。
これらの料理が作られる厨房は地下にあり、裏階段を上って、長い廊下をいくつもの角を曲がりながら給仕室へ運び、それからようやく食堂へと辿りつく。
冷めずに持ってくることは至難の業だ。
出来上がりの温度を熱くしたり蓋をしたり、スフレなど形の崩れやすいものは、風が当たらないよう後ろ向きに歩いたりとコックと給仕の頭を常に悩ませる。
そうした苦悩と努力の結晶として、温かい料理は美しい皿に盛られてやってくるのだ。
おいしく食べなければ全てが徒労に終わる。
だが、実際には味など殆ど判らず、柔らかいはずの肉も喉につっかえてしまう。
空気が鉛のよう、とはこういうことを言うのだろうか。
沈黙がのしかかり、その重さで顔が上げられない。
痛いほどの視線に晒された身体はまるで油の切れたゼンマイ仕掛け、ブロッコリーをフォークに刺して口へ運ぶだけでもすごく疲れる。
それでも早くこの場から抜け出したくて、とにかく口へ運んで咀嚼し、飲み下す。
別に食事作法の講習ではないのだから緊張する必要はないし、ほんの二日前までは至極和やかな雰囲気だった。
話すのはりんの方が圧倒的に多い、比重の偏った会話の上に相手はほぼ無表情という内容ではあったが、それで充分に和やかだったのだ。

――熱っ……殺生丸さま、このケーキ熱い……。
――アーモンドチーズケーキだ。熱くなくてどうする。
――そう、なの? ……舌、ちょっと火傷しちゃった。
――見せてみろ。
――え、いいよ、大丈夫だから……ちょ、殺生丸さまっ……!?

給仕の人たちもいるというのに、一体何を考えてるんだろう。
顔を真っ赤にして固まってしまったりんを尻目に、殺生丸は終始淡々としたものだった。
なのに――、

「――りん」

どうして、こんな事になってしまったのか。
どうして、その声が重圧を解くものになってくれないのか。
答えは判っている。原因はすべて自分にある。
だが、ここで負けてしまっては何の意味も無い。
長いテーブルの反対側で、カチャリという小さな金属音がした。
「今日も、だったようだな」
重くて低い、抑揚のない声。
パンを持つ手が一瞬止まったが、すぐに口の中へ押し込んだ。
そしてまた次を取る。
何かで口を塞がずにはいられなかった。
「りん」
二度目は、さっきよりも幾分強く呼ばれた。
怒らせたいわけではないのに、他にどうすることもできない。
「答えるべき事に答えろ」
「……友達ができたって、言ったでしょう。その子と遊んでるだけ……」
「そんな繰り言が通用すると思っているのか」
傲然とした口調は殺生丸にしてみれば当然で、りんは何かを言える立場にない。
なのに、もやもやと掴みどころのない不快感は胸の奥から広がって殻を作り、りんを益々俯かせる。
「……なんで」
「何?」
「なんで、殺生丸さまに言わなきゃいけないの?」
すると埋もれていた、他愛ないはずの事柄や関係のない事、考えないようにしていた事までが掘り起こされてしまい、それを悟られまいとして殻は更に硬くなる。
出口のない堂々巡りだ。
それを知ってか知らずか、殺生丸の言葉は易々と奥深くを突き刺す。
「不用意に外をうろつかれては迷惑だ」
「っ……迷惑、かけるようなことなんか、してない」
あくまで頑なな態度に殺生丸は短く息をつき、方法を変えた。
気が長い方ではないのだ。
にわかに立ち上がった主に給仕が慌てる。
「旦那様? あの、御夕食は……」
「もういい。――りん、後で勉強だ」
近付いてくる気配と、高い場所から降る声にパンを持つ手が止まり、肩が強張る。
これは、合図だ。
「……や、だ」
知らず指に力が篭もる。
座っているだけなのに、掴んだままの柔らかく頼りないそれを支えにしなければ崩れてしまいそうだった。
「……今日……は、やだ」
まるで子供の駄々。理由を言わなければとは思っても本当のことなど言えるわけがなく、それらしい理由も思いつかない。
気配と、絨毯を歩くかすかな靴音はもうすぐそこ。
だが殺生丸はそれについて何も言わず、すれ違いざまに「好きにしろ」と凍らせた鋼のような声で言い捨てる。
振り返ったが何を言えるわけでもなく、そのまま出て行ってしまった。
取り残された食堂で、潰してしまったいびつなパンを噛みしめる。
味はやっぱりしなくて、硬くざらついた感触だけがいつまでも喉に残った。



「はぁ……」
どうして、あんな言い方をしてしまうんだろう。
最近の自分は変だ。
会いたいのに会えば目を逸らしてしまい、言えてたことが言えなくなって唇の動かし方さえ判らなくなる。
そのくせ反抗的な言葉は、するすると口をついて出るのだ。
夜はまだいい。何も見えない分、少しだけ素直になれる。
でも、だから駄目なのだ。
……昨日は、結局行かなかった。あの後もしばらく迷ったが、行けなかった。
広いベッドで背を丸め、シーツにもぐり込みながら夜の静寂に耳をすます。
自分で言っておきながら、それでもどこかで、あの靴音とドアが開かれる音を待っていた気がする。
矛盾だらけだ。
一番最初を思い出す。
人間になれたあの時、殺生丸からの問いに自分は「好きだから」と答えた。
それは事実で、本当にそれしかなくて、今も同じだ。でも……
(なんで、あんなにあっさり言えたんだろ……)
今考えると恥ずかしくて仕方がない。
会話を反芻するだけで、耳まで熱くなるのが自分でも判る。
伝えたい気持ちは変わらないのに、この感覚は何なのだろう。
これも、「人間の証」なのだろうか。よく判らない。
――だから、言葉以外のこの方法がりんにはとても画期的で、魅力的に思えた。
(けど……怒らせちゃったら意味ないよね……)
ずっと目を合わせられなかった昨日、刹那掠めた横顔が脳裡に焼きついて離れない。
殺生丸はあれをどう思うのか。見向きもされなかったらどうしよう……

「――……ん、……りん!」
「っは、はい!」
強く呼ばれた声に慌てて答えると、心配げな眼差しがりんを見ていた。
皺の刻まれた目元やその奥に覗く双眸の温かさに、ほっとする。
「どうした、さっきから呼んでたんだよ」
「ごめんなさい。少し、ぼうっとしちゃって……」
「いいよ。今の時間はお客も少ないからね。……よく手伝ってくれてるが、あんまり頑張ったらあと三日間保たないよ」
「……はい」
そう、あと三日。結果がどうであれ、それまで絶対に見つかるわけにはいかない。
頭を切り替え、よし、とネジを締め直したところでドアの鈴が軽やかに鳴った。
「こんにちは」
入ってきた老紳士が山高帽を脱ぎ、穏やかな微笑を向ける。常連さんだ。
ここ数日ですっかり顔馴染みになった相手に、りんもこんにちはと挨拶を返した。
「いらっしゃい」
「どうも」
お客さんと世間話を始めた女将さんの隣で、紙袋に数種類のビスケットを入れていく。
彼が買うものはいつも決まっているのだ。
「ああ、今日は杏のジャムも入れてくれ。もうすぐ無くなるんだ」
笑顔と朗らかな声色につられて、りんも注文に応じながら笑う。
殺生丸さまの前でも、こんな風にできたらいいのに。

忙しさが一段落し、大きなガラス窓の向こうに見える風景が滲み始める。
今日も同じ時間にドアが開き、よく知る人が顔を見せた。
「こんにちは、お邪魔します」
「あ、ごめんなさい、ちょっとだけ待って。すぐ終わるから」
彼女が笑顔で頷く。奥にいた女将さんも、声に気付いて出てきた。
「お迎えだね」
「はい、明日も、よろしくお願いします」
「ずいぶん助かってるよ。出来ればずっといてほしいくらいだが、そうもいかないからね」
何かを思い出すように皺を作りながら笑う女将に、彼女は困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
「それは、ちょっと……いえ、かなり無理が……」
「判ってるよ。……りん、もういいからお帰り。遅くなるよ」
「はい。――今日も、ありがとうございました」
「ご苦労様」
また明日、そう交わして店を出る。
東の空はまだ青さを残しているが徐々に薄く色が重なり合い、西は淡い橙を霞ませていた。
往く人々は、傾いた陽に急かされるようにどことなく忙しげだ。
すれ違うこの人たちと自分は同じ人間で、なら自分と同じように悩んだりするのだろうか。
滅多に表情を崩さない殺生丸は、そういったこととは無縁に思えてりんはふと不安を覚える。
りんより高い、でも殺生丸より近いところから「あ」と声が漏れた。
「馬車が来てます。ちょっと急ぎましょう」
歩く速度を速める。乗合馬車の御者はこっちに気付いて待っててくれた。
乗り込むと中は思ったより混んでおらず、奥に空席を見つけて腰を下ろす。
独特の揺れに身を任せながら、りんはそっと口を開いた。
「ごめんなさい、毎日付き合わせちゃって……」
「とんでもありません。侍女なんですから、当然です。こちらこそ不便な思いをさせてしまって……お邸の馬車を使えるといいのですが、気付かれる可能性が高いので」
「……いいの? 殺生丸さまに内緒でこんな……」
「良くはありませんが、大丈夫ですよ。協力を得てますから」
あのお店に通うため、彼女は他の使用人たちに助力を頼んでくれた。
通うだけなら彼女だけでも事足りるが、殺生丸に知られないためには他の者たちにも黙っていてもらわなければならない。
おかげで五日間、無事に過ぎた。
最近、殺生丸は朝外出して帰ってくるのは日暮れ後。
りんが出かけているのはその間なので、知られずに済むかと思っていたのだが。
「……殺生丸さま、今日は?」
「遅くなられるそうです。邪見様が言ってました」
そっか、と返す声に安堵が混じる。と同時に、やはり後ろめたい。
「一昨日は、驚きましたね。まさかあんなに早くお戻りになるなんて」
「うん……ほんとに、訊かれてないの?」
「はい、てっきり問い詰められるかと思ったんですが」
一昨日、殺生丸は昼過ぎに帰ってきた。当然りんがいないことは露見し、話によればとんでもなく不機嫌だったらしい。
だが帰ったりんにどこへ行っていたのか質しても、その矛先は使用人たちへ向けられていない。
まったく生きた心地がせんわい、と邪見はぶつぶつ言っているが。

林立する様々な建物や雑多な喧噪から大きな緑の公園を通り過ぎると、流れる街並みは一変する。
すっきり通ったまっすぐな大路に沿って、整然と立ち並ぶ広大な邸は貴族たちの首都での住まいだ。
馬車を降り、舗装された石畳をふたり歩く。
春が近づいているとはいえ風はまだ冷たく、コートの襟をかき寄せた。
太陽は、空一面を紅に燃やしながら眩しすぎる真円を放っている。
目を細めるりんの後ろでは、細く長い影が真っ黒に灼きつけられていた。


【続く】


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