その習慣を知ったのは、年が改まってしばらくした頃だった。
「……贈り物をするの?」
「はい、お菓子や花にカードを添えて。親しい人と贈り合うんです」
「親しい人って……」
「たとえば、恋人とか」
どこか含みを持たせた言い方に、りんはふうんと首を傾ける。淹れてもらった紅茶に口をつけながら、色んなお祭りがあるんだな、と思っていた。
予想した反応と違ったのか、笑みを浮かべていた彼女の顔が困惑気味に揺れる。
「――あの……、贈られません……?」
「え? 誰に?」
「旦那様にです」
「殺生丸さま? って……え、……ええっ!?」
危うくカップを落としそうになり、すんでのところで傍の小さな円卓に避難させた。
突然何を言い出すんだろうこの人は。
だが、一気に血の上った顔でうろたえるりんとは対照的に、相手はさも意外といった様子で目を瞬かせている。
「どうして、そんなに驚かれるんです?」
「どうしてって……な、なんで……?」
一体何をどうすればそんな話になるのか、りんには全く見当がつかない。
「ええと……私が侍女として仕えさせていただく事は、お話し致しましたよね」
「うん……」
今までもりんの世話をしてくれていた彼女だが、肩書きは単なる女中のままで他の仕事も以前と同じようにしていた。
それが正式に侍女を命ぜられたと聞いたのは、つい最近。
両者は同じ使用人でも大きく異なっている。
掃除を始めとする様々な雑用をこなす女中とは違い、侍女は女主人の直属であり専属。身の回りの世話一切を任され、女中頭の監視下にないその地位は使用人にとって大きなステイタスとなる。
ただの部屋付き女中ならともかく、血縁でもなければ身分ある令嬢でもない異国の少女につけられるべきものでは決してない。
使用人が地位を持つには、その主に相応の権威がなければいけないのだ。
にも関わらず、引き取ったというだけだった筈の少女にそれがつけられた。
ということは、つまり、そういうこと。
「皆もそう承知してると思いますが」
「みんな、も……?」
「はい」
けして数の多くない使用人たちだが、その分団結力や連帯感といったものは強い。
主人から下されたのは例によってたった一言の決定事項のみで、そこから胸中を正確に読み取ることなどできないが、皆それを日々に見え隠れする片鱗と共に沈黙と衝撃で以て受けとめていた。
もちろん現実的ではない。
実際問題として考えれば考えるほど聳える壁は高さと厚みを増し、その数も片手ではとても足りない。
しかも厄介なことに、一番の不安材料は他ならぬ主人――殺生丸なのだ。
だからこそ、この記念日を持ち出したのだが。
紅潮していた頬の温度が、すっと下がった。
「……ちがう、よ」
僅かに伏せられた瞼と、それを縁取る睫毛が頬に薄い影を落とす。
深く透き通った黒い眸と控えめな口元が、閑かに微笑む。
ついさっきまで赤面していた少女とは結びつかないほどそれは、静謐に。
「ちがうの」
やわらかに、だが明瞭に少女は紡ぐ。
「そういうのじゃ、ないから」
施為も言葉も、殺生丸から貰うものを型に当て嵌めれば、そう名がつくのだろうか。
りんには到底、符合するとは思えない。型からはみ出る部分の方がむしろ近い気がする。
無理に名前を貼りつけても、中身との隔たりを浮き彫りにするだけだ。
でもそれは、落胆でも諦念でもなく喜び。失いたくない大切なもの。
りんを《人間》にしてくれた、ぬくもり。
どんな言葉でも表せるはずがない。
だから思うことがあるとすれば自分の方だ。
伝えたいことの欠片も伝えられずに子どもっぽい反発ばかりで、愛想を尽かされたらどうしよう。
それがりんは怖い。そう思う心もまた、知らなかったことだ。
大切なものを得たらその分だけ、怖いものも増えていく。
短く繰り返される声に、じっと耳を傾けていた彼女がゆっくりと口を開いた。
「では、こう考えて下さい」
「え?」
「建前はどうだっていいんです。大事なひとに、言葉以外のものでその気持ちを贈る日なんですから」
「……言葉じゃなくても、いいの?」
そんな方法があるとは思いもよらなかったりんに、穏やかな笑顔が頷く。何を押しつけるわけでもなくただ優しい彼女の笑い方が、りんは好きだ。
「……やって、みようかな」
金属の擦れる音がひそやかに響く。
使用人が使う裏門を通り、年月を経て木目に沿った皺のような凹凸ができているドアを開ける。
廊下の途中で別れ、彼女は階下へ降りてりんは三階の自室へと階段を上る。
今日で九日。あと、一日。
贈り物をすると決めたはいいが、すぐに問題が浮上した。
当たり前のことだが、りんには自由にできるりん自身の財産が銅貨の一枚もないのだ。
必要を感じなかったので一度も考えたことがなかった。りんに関して入り用のものがあれば任せる、と殺生丸の許可は出ているが、それではまったくの無意味。
ちゃんと、自分で贈りたい。
それは絶対に譲れない一線だった。
――どこかで働けないかな。
尋ねたりんに、彼女は最初とんでもないと激しく首を横に振った。だが、それ以外に策がないのも事実。唸りながら考え込み、ぎゅっと力んでいた眉間がふと緩んだ。
あそこなら、と。
詳しいことは聞かなかったが、知り合いが焼き菓子の店をやっているらしく、そこなら安心だと言う。
事情を話すと女将は快諾してくれ、十日間の手伝いが決まったのだ。
階段を上りきり、廊下へ踏み出した足がぴたり止まった。
殺生丸が立っている。
りんの部屋の前、ドアに背を預けるようにして宙へ視線を遊ばせていた。
昨日の朝はさすがに顔を合わせられず、夜は帰宅が遅いと聞いたのでひとりで夕食をとった。
今朝になっても、まだ帰ってなかった。二日ぶりだ。
りんに気付いているだろうに、こちらを見ようとはしない。
ずっと固まっているわけにもいかず、引き摺るように足を動かした。
少しずつ近づく横顔を見ながら、きれいだな、とこんな時でも思う。
あと二歩のところで立ち止まると、ようやく金色の眼差しをりんに向けた。
睨まれているわけでもないのに、その硬質さに身が竦む。
「また、か」
「……殺生丸さまには……関係、ないでしょう」
「そうだな」
口に出してから、しまったと後悔したのだが殺生丸はあっさり同意してみせた。
「確かに関係ない。養子手続をしたわけでも何でもないからな」
何の感情も篭もらない声でそれだけ言うと、りんの横を一瞥もせず通り過ぎてあっという間に殺生丸はいなくなってしまった。
流れる銀髪の、その一筋ほどの温度も面影も残さずに。
硝子窓を通した空は、雲も太陽の光も歪んで見える。
書斎の肘掛け椅子に凭れてくすんだ蒼を眺めながら、殺生丸は昨日の言葉をなぞっていた。
関係ないのは事実その通りで、売られたから買ったなどという幼稚さ故ではない。
たとえ養子手続をしていたとしても、それは法に則ってではなくあくまで家の中だけでの、契約とさえ呼べない口約束みたいなもの。
そのような制度はこの国の法律上、存在しない。
従って法的拘束力も無く、公に認められた身分でもない。
極端に言うと、追い出せばたちまち関係は断ち切れ、野垂れ死んだとしても一切の責任は生じないのだ。
ならば同じこと。
りんの立場が曖昧で、不安定なことに変わりはない。
どうでもいいと思っていた。
名目があろうとなかろうと、それこそ関係ないのだから。
……では、何故。
漂う空気も壁一面にひしめく本も口を噤む静けさに突然、無遠慮な音が鳴り響き、珍しく捕らわれていた思考の網を裂いた。
「よっ」
まるで自分の邸に帰ってきたかのような図々しさで入ってきた人物に殺生丸は眉を顰めたが、意に介す様子はまるきり無い。
貧相な髭を撫でながら部屋を見回し、手近なソファに腰を下ろす。
「あー疲れた。やっぱり長旅は老体に堪えるよなぁ」
「出て行け」
「いきなりそれか。昨日帰国したばかりだってのに顔見せに来たんだぞ? 茶の一杯くらい……」
「不法侵入者に出す茶などない」
「ちゃんとノックしただろうが?」
「誰が入っていいと言った」
「固いこと言うなって。勝手知ったる家じゃねえか」
「その言葉遣いもいい加減改めろ。爵位を何だと思っている」
幾度と知れない忠告に、相変わらずだなお前、とわざとらしい溜め息を吐く。
相変わらずなのはどちらだ。
大体、何故誰も止めなかったのか。邪見はどうしたと問えば、さあ、と気の抜けた声が返ってくる。
勝手に上がりこむ父の悪友も制しきれない老僕に舌打ちし、次いでいつになく苛立っている己を自覚して肩で息をついた。
「そういえばよー」
とぼけた物言いに真面目に取りあう気も失せ、机に放ったままだった本を繰る。
「昨日は船が思ったより早く着いてな、ちょっと時間が余ったから街をぶらついてたんだよ。様子を見に行きたかった所もあったしな。そこで珍しいもんを見てなぁ」
やけに、もったいぶった言い方だ。
「わしはまぁ見慣れてるが、やっぱここだと黒髪黒眼ってのは目立つな。しかも居た場所が――」
言葉を続けようとした口がそのままの形で止まる。
殺生丸が、持っていた本をいきなり机に叩きつけたのだ。
無言で歩み寄り、猛禽類の鋭さで見下ろしてくる亡き友人の息子に老翁は口角を持ち上げた。
「やっぱりな」
陽は中天を過ぎ、りんは店の奥で遅めの昼食をとっていた。
この店での食事も今日で最後。しっかり味わいたいところだが、昨日のやりとりが喉に引っかかって取れず、殺生丸の声は未だ心臓に突き刺さっている。
自分で言ったことなのに、ばかみたいだ。
つい目を向けてしまうのはテーブルの隅に置かれた茶色い紙袋。
これのために張り続けた意地に、一体どれだけの意味があるのだろう。
「大丈夫だよ」
弾かれたように顔を上げると、いつもと同じ温かな笑顔があった。
「心配しなくても、きっと上手くいくよ。だからほら、もっと食べなさい。せっかく貰ったお土産なんだから」
視線の先を察した言葉に気持ちが和らぎつつ顔が熱くなるのを覚え、伏しがちにスプーンを持つ手を動かした。
皿の中ではシチューが湯気を立てているのだが、入っている具が変わっていた。大きく切ったじゃがいもや玉葱、牛肉が普通だが、それらに交じって見慣れないものが存在を主張している。
赤褐色のそれは肉とも野菜ともはっきりせず、細切れになってるので原形も判らない。干物と聞いたが、何の干物かは尋ねずにおいた。
でもおいしい。噛みしめると、じんわり味が広がってくる感じだ。
昨日、りんが帰ってからすぐやって来たという知り合いは他にも様々な珍品をくれたらしい。
こういう物をお土産に選ぶのってどんな人だろう、と興味が湧いたが、不意に聞こえた馬のいななきに意識が逸れる。
「なんだろ……」
訝りながら店へ出ると、いきなり左腕を強く引かれた。
バランスを崩して前のめりになり、何かに顔からぶつかる。
まさか、とこわごわ見上げた先に。
「こんな所で何をしている」
問われても、足の先まで貫くように射抜かれて硬直した喉は動かない。
逃れたくても掴まれているのは二の腕で、全然びくともしない。
疑問符が浮かんでは霧散して、考えがまとまらない。
この眸の色をこんなに間近で見るのは随分久しぶりな気がして、苦しい。
捕らわれた数秒が十倍くらい長く感じた。
「おや、めずらしい」
女将が遅れてやって来た。その口調や表情はさっきまでと変わらず泰然として、剣呑な空気を物ともしていない。年の功、というものだろうか。
「お邸をお暇して以来ですかね。お元気そうで何より……」
「挨拶はいい」
目線が外されてほんの僅か力が抜け、知らず息を止めていたことに気付く。
「――道理で、な」
だがりんの後ろへ向けられた声には明らかに険があり、間に挟まれた形のりんはとても居たたまれない。
二人は知り合いらしいがそれに驚く余裕もなかった。
対して、女将はやはり穏やかなままだ。
「三日もしないうちに連れ戻しにいらっしゃるんじゃないかと心配してたんですよ。誰もお咎めになってないようですし、ほっとしてました。……ここは、あの方が?」
「帰る」
問いを無視し、掴む腕を引いて踵を返す。りんは慌てた。
「ま、待って殺生丸さま! まだ終わってないの、夕方――」
「ふざけるな」
りんを見ようともせず、まったく聞き入れてくれない。無理に引っぱられる左腕が痛くて、その背中に哀しくなった。
痛みなど持たない物言わぬ人形。
だから腕でも足でも力任せに引き摺られ、振り回され、首が折れても変わらず正しい微笑みを向け続ける。
でも、りんはもう人形じゃない。
店の前に停められた、馬車の扉が開かれる。
「りん! 忘れ物だよ!」
息を乱しぎみに手渡されたのはあの紙袋。さっきは持ってなかったから、取りに戻ってくれたのだろう。申し訳なさと一緒に、他の色んなことがこみ上げてくる。
「ごめんなさい、……あたし……」
「そんな顔をしなくていい。大丈夫だから、しっかりおやり」
こくん、と頷くりんに目元の皺を深くして笑ってくれた。
りんを先に馬車へ入れた殺生丸が振り返る。
「楓」
「承知しております」
呼ばれた名に含められた言外の命令に、元女中頭は以前と同じぴんと糸を張った声で答えた。
邸に帰るまでの間、りんは膝の紙袋をずっと抱きしめていた。
会話は女将が女中頭として邸に勤めていたことを聞いただけ。
着くと、殺生丸は口を開いては閉じる行為を繰り返すりんを置いて歩き出す。紙袋について言及しないのは興味がないからだろう。足早な背中は頑としていた。
「お、早かったな」
広い玄関ホール、その壁際にある天鵞絨張りの椅子に腰かける見知らぬ人に驚き、足が止まる。その人はりんに気付くと腕を組みながら歩み寄り、感慨深げにゆっくり息を吐き出した。
「しっかしあれだな、お前からあんなもんを頼まれた時はとても信じられんかったが、これは……」
「無駄口はいい。さっさと帰れ」
「初めましてだな、お嬢ちゃん。わしは刀々斎といってな、こいつのことは赤ん坊の時からよーく知っとる」
目線を合わせ、破顔する老人にりんも挨拶を返して頭を下げたが、殺生丸がその前に立ちふさがる。
無言の圧に嘆息し、やれやれと首を振った。コートを羽織りながら玄関へ向かう、くたびれた靴音が一旦止まる。
「どういうつもりか知らんがな、《判ってる》のか?」
「――私には関係ない」
「……緋は、白になる。身代わりになった神の大いなる慈悲とやらでな。せいぜい祈っとけ」
「無神論者ではなかったのか?」
「は、そりゃそうだ」
自嘲的に一笑し、じゃあなと手を振った客人は重々しい扉の向こうへ去っていった。
騒がしい一日だった。
机に書類を広げながら、殺生丸は思う。
陽が傾くと共に邸は元の静穏を取り戻し、この書斎に満ちているのも今はペンが紙を滑る音だけ。
りんはあの後も言葉少なで、夕食以外は顔を見せていない。殺生丸が邸にいる時は、たいてい傍で他愛ないお喋りをしているので妙に落ち着かない気分だ。
まだ半年も経っていないというのに、既にりんがいることが当たり前となっている。
――《判ってる》のか?
それが、何だというのだ。
なめらかなインクの曲線が流れる紙面に視線を落としながら、拗ねたように眉根を寄せて見上げてくる強気な眼差しを脳裡に描く。
近頃、少女は随分と様々な表情を見せるようになった。
おそらく最初は、生身の体を得ても精神は人形のままだったのだろう、自らに起こったありとあらゆる変化に心が追いついてなかったようだ。
以前はなかった反発的な態度や口答えも、成長の証かと思えば悪いものではないのだろうが、そうなるとりんは中々折れない。
存外に、頑固な節がある。
ふ、と幽かな微笑が端正な面(おもて)に浮かんで消えた。
ランプの明かりが金色の眸に仄かに揺れる。
消え入りそうなノックに顔を上げると、その幻のような翳りは一片も残らなかった。
殺生丸は立ち上がった。
こんなノックをする人物はひとりしかおらず、開けると予想通りの表情でりんが立っている。違うのは、ティーセットらしきものを乗せたトレイを持っていることだ。
目を遣りながらも黙って促すと、おそるおそる足を進めてテーブルにトレイを置き、カップに何かを注ぐ。
嗅ぎ慣れない香りと湯気を漂わせるそれを、ことりと机に戻った殺生丸の前に置いた。
「何だ、これは」
「えと……チョコレート、っていうらしいんだけど……」
殺生丸の眉が怪訝に寄せられ、りんは逃げ出したい衝動を必死に堪えた。
「あのね、その……今日は、親しい人に贈り物をする日だって聞いて、それで……」
もう、顔が燃えそうに熱い。彼女にあんなことを言われたせいだ。違うと知っていても、意識してしまう。
何を贈るかだいぶ悩んだ。
いろいろお菓子を見て回っても、どれもしっくりこない。
そこで女将に勧められたのがこれだった。
外国からの輸入品で、関税が高いから高級な飲み物だという。ある国では固形の食べるチョコレートが発明されたらしいが、まだこちらには入ってきていない。
その国で、この日にチョコレートを贈るのが流行っている、ということだった。
お店に連れて行ってもらい飲んでみると、甘さと苦さが混在する、香りも味も独特な、でもおいしい飲み物だった。
色が底の見えない黒茶の上、コーヒーや紅茶とは違いとろりとしているので、最初は少し躊躇われたが。
甘い夢物語のようなふわふわのお菓子より、似合いな気がした。
「隠していたのは、これか」
平坦な口調だが、呆れが混じっている。
やっぱりだめだった……俯くりんの視界から、カップが消えた。
「え……」
殺生丸が口をつけている。僅かに喉が上下し、唇を舐めた。
「甘い」
「……そ、そう? 砂糖、入れ過ぎちゃったのかな……」
「お前が作ったのか?」
「……うん。作り方教えてもらって、下の厨房、借りて」
「その爪はそれで、か」
見ると、右手の人差し指と中指の爪先が茶色く染まっている。洗ったが、落としきれてなかったようだ。
恥ずかしくなって、洗い直してくると言って部屋を出ようとしたが腕を掴まれた。
「構わん。――来い」
拒めるはずもなく、机を回って座っている殺生丸の横に立つと今度は手首を掴まれる。
引き寄せ、自身の口に中指を含む。
指と爪の間を舌先で舐めとり、人差し指も、同じように。
「やはり、甘いな」
羞恥に耐え、ようやく解放された指先は濡れていた。
「……甘いのは、きらい?」
「いや」
嫌いではない、といくらか角の取れた声音がりんの耳朶を打つ。
視線が絡んだ。
でも、互いを映しあってるこの瞬間さえ、まばたき一つですぐに過去へと変わってしまう。
そしてやってくる明日はあやふやで不確かで、カップに揺れるショコラのように、見通せるものなんて何も無い。
だから溶かして。
判らないものすべて、この苦みの中へ溶かし込んで。
飲み干した後に残るのはきっと、甘さだけ。
【終】
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