『三十一文字シリーズ・其の九』
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古今和歌集・巻八 離別歌 四〇二番
「かきくらし ことはふらなむ 春雨に 濡衣きせて 君をとどめむ」
                                  読人知らず

―空が暗くなるのなら いっそ雨が降ればいい
           そうしたら全てを雨のせいにしてあなたを留めよう―

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薄絹のような淡く霞がかった天色や瑞々しく光を弾くやわらかな緑、とりどりの花々を撫ぜていく微風。
在るものはすべてが、固く縮めていた背を思いきり伸ばしていた。
桜の頃までは漂っていた冬の名残りも初夏を思わせる陽光に一掃され、今ごつごつした枝を彩っているのは薄紅ではなく青葉色。
――でも、空の神様というのは気分屋で。
ついさっきまで汗ばむほどだった太陽はぷっつり姿を消し、野に踊っていたくっきりと濃い影は灰色に溶けて見分けがつかない。
光を透かしていた真っ白な薄雲まで鉛に沈み、重く垂れこめている。
ひたひたと水を含んで、今にもぽつり降ってきそう……そう思った矢先、浅く皺を寄せた眉間に滴が落ちた。
それを合図に水音は重なり始め、髪を、頬を、着物をたちまち濡らしていく。
慌てて駆け出した足。
しかし三度目の土を踏む前に、それはふわりと宙に浮いた。


「ありがとう」
少女の足が再び下ろされたのは、雨粒の届かない大木の元。
見上げて笑う顔に手が伸ばされ、貼りついて滴の伝う前髪を、鋭い爪を持つ指がそっと梳く。
「急に降ってきちゃったね……ごめんなさい、もっと早く戻ればよかった」
庇ってくれたおかげでさほど濡れずに済んだものの、柔らかい髪は水を吸って跳ねる毛先からぽとり零れる。
睫の上にも、細かな水滴がついていた。
「殺生丸さまも濡れちゃったでしょう? すぐ拭くから――」
「要らん」
短く切られた一言に懐から出した晒しが行き場を失い、りんの手も止まる。
そうだ。
このひとは、雨に濡れるということがない。
どんなに激しい驟雨が地を叩いても、歩みを止めるどころか触れることさえ許されないのだ。
現に今も、さらさら流れる銀髪には一滴も零れていない。
(……でも、本当に濡れてないのかな……)
気になってあちこち見回していたら、不意に布を奪われた。
妖の髪に触れること叶わなかったそれは、代わりに少女の頭へ落とされる。
りんはきょとんと目を丸くしたが、すぐに破顔した。
「ありがとう」
二回目の台詞に、殺生丸は内心小さな溜め息をつく。
ありがとうも何も、元々りんの持ち物だ。
自分が与えたわけではなく、それが必要なのもりんの方だというのに。
――それに。
ちらりと視線を向けると、横に並んだりんが気付いて頭を拭く晒しの下からにっこり笑う。
まだ湿っている黒髪はいつもより深く、首筋や肩に纏わりついて柔らかみを帯びてきた線を浮き彫りにしていた。
「……寒いか」
「ううん、大丈夫。そんなに濡れてないし、ちゃんと拭いたか――わっ!?」
言い終わらない内に突然腕を引かれ、りんは後ろ向きに倒れこんだ。
身構える暇も与えずに背を受け止めたのは純白の妖毛。
いつの間にか腰を下ろして幹に凭れていた妖に、身体ごと封じ込められていた。
「殺生丸、さま……?」
この柔らかいぬくもりに包まれるのは随分久しぶりだ。
妙に恥ずかしくて、くすぐったくて、名を呼ぶ声まで少し上擦ってしまう。
なのに、傍らで見下ろしているりんを引っぱりこんだ張本人は涼しい顔。
「大人しくしてろ」
そう言って、剥き出しの足先までを妖毛にくるむ。
(いっしょに雨宿りしてくれるんだ……)
空の機嫌などに左右されないひとだけに、このまま行ってしまうかも知れないと思っていたりんは嬉しくて、ふわふわの毛にもぐり込んだ。
村に預けられてから、こんな風に触れるのは初めてだった。
心地良いあたたかさに緊張は弛み、雨に混じって溶けてゆく。
とろとろ重くなる瞼を何とか持ち上げながら思った。

――もう少しだけ。
――このまま。

でも、少女は知らない。
大気の変化を察していながら妖がわざと教えなかったことを。
やがて瞳は完全に閉じ、安心しきった寝顔を妖に向ける。
幾筋もの水の糸は幕となり、世界をやさしく遮断する。
雨の奏でる穏やかな音律が、耳朶を打つ。
まだ、しばらくは止みそうにない。








ちょこっとおまけ。



「わ、結構降ってきたねー」
「だから言ったじゃねぇか、迎えに行った方がいいってよ」
「それは駄目!」
「はぁ? 何でだよ」
「…………判んないの?」
「判るわけねーだろうがっ!」
「あんたって……ほんと、鈍感ていうか何ていうか……」
「あ?」
「ううん、いい。とにかくお迎えとか要らないから、余計なことしないでよね」
「なっ……おれは心配して言ってんだぞ!?」
「それが余計なの!」
「ふざけっ――」
「あーもーうるさい! おすわりっ!」
「ぎゃんっ!!」




【終】

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