『三十一文字シリーズ・其の八』




「――よくもまあ、それだけ続くものだな」

一陣の風どころか衣擦れも立てず、いつの間にか彼女はそこにいた。
揶揄する響きも軽やかで、突然にも関わらずそれは清爽な大気を乱すことなく、するりと耳に入ってくる。
澄み渡る蒼は徐々に角がとれ、裸だった梢は芽吹き始め、氷から水へと移ろう時。
華やかに舞う山吹の蝶を長春色で、打掛を瓶覗で纏う彼女は、空の色もてつだって春を告げにきた天女にも見える。
それは彼女自身の美しさも大いに起因しているが、もちろんそんな穏やかで麗しいだけの、生易しい存在ではない。
何をしなくとも、佇んでいるだけで他を圧倒する気は春陽とは程遠く。
凄艶な香を匂わせる笑みに、理由のない怖気が背を走る。
その属をも示す、妖しい、という形容は彼女の為にあるようなものだ。
人間に限らず同属であっても竦み上がるものを、声をかけられた相手は足を止めこそすれ振り向きもしない。
おそらく鬱陶しい、としか思っていないのだろう。
彼女もそれを気にする風もなく、口元に描いた曲線を更につり上げた。
「また着物でも持っていくのだろう? 今更、餌付けもなかろうに」
「――何が言いたい」
「甲斐甲斐しいと褒めているのだ。そんなに心配か、あの小娘が」
「そちらには関わりのないこと」
よく似た容貌をしていても、表情や声音は面白いほど正反対。
一方が舞い歌う鳥なら、一方は地を這う寒風。
そして風は鳥の羽ばたきを遮ること敵わず、ひらひらと転がされるのだ。
「何があったかは知らぬが、随分と半端なことよの。……腑抜けたものだ」
男が、振り向いた。
表情にこそ出ていないが、身を包む妖気は明らかに剣呑さを増している。
単純な息子に心中でほくそ笑みながら、彼女は大仰に溜め息をついてみせた。
「手元に置く自信も、道を分かつ覚悟もないのか。情けない」
「……斬られたいのか」
「おお怖い。それが散々世話になった母に対する仕打ちか」
まるで芝居の一幕のように袖で口元を隠し、よよ、と悲嘆に暮れる。
世話になった覚えなど無い、と吐き捨ててやりたいが、残念ながら充分にある。
無視を決めこみ、翻した背に今度はひどく静かな声が突き刺さった。

――煩わしい、と。

つめたく乾いた風が、草をざわざわと揺らした。
「人間もたまには上手いことを言う。さしずめ、そなたにとっての桜は小娘か」
「……戯れ歌と一緒にするな」
「同じだろう。我々が思う人間の短さを、人間は桜に思うているのだからな」
袖からのぞく手に力が篭もり、拳をつくる。
それを視界に捉えながら、だが、と彼女は続けた。
「それは、真でないからこそ言えるもの」
「――……私は、そんな世迷言で誤魔化す気はない」
逆立っていた妖気は鎮まり、声も常の落ち着きを取り戻している。
頑なにも思える背に、彼女はそっと目を細めて。
「では精々、小娘に愛想をつかされぬようにな。殺生丸」
言い終わると同時に、その姿は空へと消えた。
後にはからかうように漂う残り香だけ。
漏らした舌打ちのすぐ上で、桜が蕾をあかく染めていた。


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古今和歌集・巻一 春歌上 五十三番 
「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」
                                  在原業平

―この世に桜さえなければ、心乱されず春をのどかに過ごせるだろうに―

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【終】

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