『三十一文字シリーズ・其の七』
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 万葉集・第六巻 一〇一八番 
 「白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば 知らずともよし」
                                          元興寺の僧

     ―真珠の美しさは人に知られない、知らなくていい
         自分さえそれを知っていれば他の者は知らなくていい―

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――さて、どうしてやろうか。

獲物を前に舌なめずりをする獣の下、何も知らない寝顔をそよ風が撫ぜていった。


匂いを辿った先、風に揺れる柔らかな草に包まれて、りんは眠っていた。
薬草でも摘みにきたのか、傍の篭からは独特のにおいが漂って妖の鼻腔に入りこむ。
その隙間を縫って届く甘やかなそれをもっと確かめようと、腰を落とした。
妖の黒い輪郭が少女を覆い、光を遮断する。
手を伸ばし、指の背で頬をなぞると稚い表情はくすぐったそうに身動ぐ。
それでも起きる気配はなく、笑んだ口元から聞こえるのは規則正しい寝息だけ。
すらりと長い指はゆっくりと膚の上をたどり、やがて薄く開いた唇へと行き着いた。
そっと触れると温かな吐息がかかり、その部分だけ湿った熱を帯びる。
無防備な寝姿はあどけないばかりで、幼い頃とまるで変わらない。
そのくせ……

(やってくれたものだな、りん?)

指先から伝わるふわふわとした感触、それが思いのほか弾力を持っていることを殺生丸は知った。
奪ったわけではない。仕掛けてきたのはりんの方なのだから。
じっと見つめてきたかと思えば、予想もしないあの行動。
どういうつもりだったかは知らないが、たとえ後悔しても――もう、遅い。
触れるか触れないか、ぎりぎりのところを掠める程度でも神経は鋭敏にそのぬくもりを捉える。
鮮明に蘇る記憶はしずかに殺生丸を揺さぶり続け、手は勝手に奇妙な遊びを繰り返す。
その揺れは不快なものではなかった。
じわじわと広がる熱はむしろ心地よく、暢気な顔を見ているとこちらにまで伝染ってきそうだ。
……可笑しいのは、似合わぬ背伸びをした少女か。
それとも、あの程度の戯れに煽られた己か。
どちらにしろ、このままで済ますつもりは無い。
口元が緩やかな弧を描くのと、閉じられていた瞼が持ち上がるのはほぼ同時だった。
「――……ん…、あ……せっしょうまるさま……?」
とろんと蕩けた焦点の合わない目を向けながら、それでも習慣故か笑ってみせる。
が、突然大きく目を見開き、至極慌てた様子で飛び起きた。
その面(おもて)はみるみる鮮やかな朱に染まり、狼狽え、俯く。
――沈黙。
他愛のないお喋りを紡ぎだす口は固く引き結ばれ、両手は膝の上で裾をきつく握りしめている。
縮んだ身の内側ではどくどくと、心臓が常ではない音を立てているに違いない。
硬直しきったその様は、さながら悪戯が見つかって叱責を受ける子供のよう。
つい先刻までの少女を思い出し、男は笑いを噛み殺した。
「……っあ、の………ご、ごめんなさいっ!」
言うなり、立ち上がって背を向けようとしたのですかさず腕を掴む。
「――私が、むざむざと二度も逃すと思ったのか」
抑揚のない声に、りんはびくりと肩を震わせた。
手加減はしていても殺生丸の手は何よりも強い拘束具となっている。選択肢は無い。
命じられ、のろのろと腰を下ろした。
それでもまだ離すつもりはないようで、繋がれたままの状態が続く。

「……ごめんなさい……」
再び訪れた、しかしさっきよりも居たたまれない空気の中でりんはさっきと同じ言葉を口にする。
殺生丸は空いている右手でりんの顎を持ち上げ、視線を無理やり絡ませた。
熟れた果実よりも真っ赤に色づいた膚、へにゃりと下がった眉尻。
潤んだ、まるい黒の中にいる顔は意地の悪い笑みを浮かべていた。
「何を謝る?」
「だって、……怒ってる、でしょう? あ…あんなこと……しちゃった……か、ら……」
「怒っているように見えるのか」
「……ちがうの?」
なさけなく顔を歪ませながら問う声は弱々しくて、ひどく幼い。
底の方から突き上げられる、この感覚は何と呼ぶものなのだろう。
「――さあ、な」
「っ……」
素っ気ない返答は少女を更に追いつめ、涙を零していないのが不思議なほど。
ぎゅっと唇を噛みしめ、耐えていた。
普段なら妖が怒ってなどいないことに容易く気付いたろう。
だが、起きぬけに突然こんな状況に置かれた混乱と恥ずかしさでいっぱいになっている頭の中は真っ白で、まともな思考は全て目の前の金色に奪われていた。
なのに、殺生丸は容赦なく次の行動へと移る。
顎を掴んだまま、親指の腹を殊更ゆっくりと唇に這わせてゆく。
強張り、このままでは自らを傷つけてしまいかねないりんを宥めるかのような動き。
しかしそれは同時に、先日の行為を否が応でも思い起こさせる。
頬はもう充分すぎるほど火照っているというのに、熱は上がり続けてりんの芯を溶かしていく。
「……赤いな」
「だっ、て……んぅっ!」
抗議のために開かれた口は、しかしその用を為さなかった。
あいた隙間からいきなり指を、それも人差し指と中指、二本挿し入れられたのだ。
思わず舌を退いたが、侵入者はいとも簡単に捕らえてしまう。
――これから一体、何をされるのか。
訳の判らなさと羞恥で恐慌状態に陥っているりんに、酷薄な声が降ってくる。
「舐めろ」
ただ、一言。あまりに、絶対的な。
驚愕に震える瞳で懸命に訴えても、殺生丸はそれ以上何も言わない。
言葉よりも雄弁に、見下ろす双眸がりんの意志を差し挟む余地など無いことを物語っていた。
顎を固定するのも指三本で充分、事足りている。
おずおずと目を伏せる少女の頭上で、妖は口の端をつり上げた。

強引に捕らえられていた舌が、自ら触れる。
どう動かせばいいのか見当もつかない。それでも、懸命に形をなぞった。
自然と漏れる水音や速くなる息遣いがいくつも重なり、空気をそこだけ濃く塗り変えてゆく。
旋律と呼ぶには未熟すぎ、呻きと呼ぶには艶やかすぎる、それ。
たどたどしい動きは却って昂じさせた。
徒に撫でてやれば途端に慄き、戸惑い逃げる。
それをまた引き戻して、促す。
どこからか湧いてくる水は止まらず、嚥下する音がりんを冒す。
気が遠くなりそうに長い長い時間。それは、殺生丸にとって束の間の遊戯だった。
とうとう力が入らなくなった頃、口づけた訳でもないりんのそこは、ぷっくりとあかく腫れていた。
(――潮時、か)
引き抜き、唾液を拭うこともせず頬を包み持ち上げる。
熱に浮かされた瞳、火がつきそうなほどの膚、閉じる気力もなく篭った息を吐きだす口。
尽き果てた少女の様は、妖をいたく満足させるものだった。
「――…生意気な口への仕置きだ」
「……っい……いじ、わるい……」
「まだ、懲りぬとみえる…」
「や、ごめん…なさい……も…しない、から……」
「私は構わんが?」
耳元で囁かれた楽しげな響きに、りんは必死にいやいやをした。


流れる風が、高ぶった熱を連れていく。
落ち着いたのか疲れたのか、りんは傍らで柔らかな妖毛に身体を預けている。
それから、と殺生丸が付け足したのはそんな、穏やかな時間を取り戻したときだった。
「こんな所で寝たりするな。無用心が過ぎる」
「……だって、ここんとこ、よく眠れなかったんだもん……」
「何故?」
「……もう、会いに来てくれなかったらどうしようって……こわ、くて……」
「自業自得だな」
にべも無い、しかし全くその通りの言葉に、りんはぷうっと頬を膨らませた。
――それにしても、と殺生丸は思う。
よくもこれだけの表情ができるものだ。
赤子のように寝てるかと思えばいっぱしの娘のように頬を染め、
女を覗かせた次にはまた子供に戻っている。
この短い間にりんが見せた顔をひとつひとつ並べると、両手でも足りないかも知れない。
つくづく、飽きない小娘だ。だが――
「……村の人間にも、そんな顔をするのか?」
「え? しない、よ?……こんな意地悪言うの、殺生丸さまだけだもん」
「なら良い」
――だがそれも、全てこの手の中でのみ。
他の者が知る必要など無いものだ。
りんが首を傾げ、その大きな瞳で意味を問うても、整った白皙は僅かに綻ぶだけだった。


【終】

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