『三十一文字シリーズ・其の六』
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    古今和歌集・巻十一 恋歌一 五〇三番 
    「思ふには 忍ぶることぞ 負けにける 色にはいでじと 思ひしものを」
                                      詠人知らず

    ―表には出さないようにしようとあれだけ思っていたのに、
       やっぱり恋しいと思う気持ちに忍ぶ気持ちが負けてしまった―

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「――…何だ」
「な、何でもないっ……!」
「…………」
「何でもないってば!」

(やだ、どうしよう……目を逸らしちゃった。殺生丸さま怒ってるかな、呆れてるかな……)
じっと見ていたのを指摘されたのが恥ずかしくて、ついごまかしてしまった。
恐る恐る、ちらと目だけを横に動かしたが、そこにいるのはいつもの淡々とした横顔。
視線も既にりんの方を向いてはいない。
さして興味も無いのだろう。
自分は、こうして隣に座っているだけで妙に落ち着かなくなってしまうのに。

――村に来て、もう何年経っただろう。
だいぶ背も伸びて、楓との差もあまりない。
周りでも、夫婦が増えたり子供が増えたりと変わったことはたくさんある。
それでも時折来てくれる殺生丸とは変わりなくて。
着物や身の回りの物を持ってきてくれて、さっきみたいに自分のお喋りを聞いてくれる。
旅をしていた頃と同じで返事をくれることは殆どないけど、やっぱりここが一番好きだ。

……なのに。
どうしてかな。
時々、ヘンになっちゃうの。
今だってそう。
普通にお喋りしてたのに、ふと横顔に見入っちゃって言葉が出なくなっちゃった。
急に話を止めちゃったら、見つめちゃったら、何だって思うのは当たり前だよね。
でも……目が、離せなかったの。
きれいで、本当にきれいで……苦しくなった。
泣きたくなっちゃうんだよ、おかしいでしょ?
こっちを見てくれたのに、訊いてくれたのに、あんな怒ったような言い方をしちゃうの。
自分でもどうしてなのか判らない。
謝りたいのに、それもできない。
一番居心地のいい場所が、今は一番落ち着かない。

目を逸らしたっきり、何も言わない殺生丸が何を思っているのか、りんには判らない。
たぶん、表情と同じで別に何とも思っていないのだろう。
何だかあまりにも自分とは差がありすぎて、だんだん情けなくなってくる。
思い切るように息をひとつ吸い込むと、りんは立ち上がった。
「……じゃあ……もう、行くね」
「そうか」
――やっぱり、殺生丸さまにはどうでもいいことなのかな。
そう思うと、無性に悔しくなってきた。
やり返したい。
いつもなら届かない場所。
腰を下ろしていてもその距離は縮まらない。
でも今なら自分は立っていて、殺生丸は座ってこっちを見てる。
考えるより先に、りんは行動を起こした。


それは一瞬。
まばたきより短いかも知れないその奇襲は、見事に成功した。
屈めた背を起こすとりんは全力疾走した。
やってしまった以上、留まるわけにはいかない。顔を見られる訳がない。
走って走って、村のすぐそこまで来て、やがて足を止めた。
心臓の音が頭の奥にまで響いて壊れてしまいそうだった。
足の力が抜けて、ぺたんとその場に座り込む。
(えっ、と……あたし……今、なにを……)
血がどんどん顔に集まってくるのが判る。手を当てると、その熱さに自分でびっくりした。
(やだ…次、どんな顔で会ったら……ううん、それよりもう来てくれなかったらどうしよう……)
余韻など感じる暇もなく、りんは今更ながら自分のしてしまったことをあれこれ悩んでいた。

同時刻。
珍しく、殺生丸はりんが去った後もその場を動かないまま。
ゆっくりと、あかい舌が自身の唇をなぞる。
少女が走っていった先を見遣り、ふ、と息をついた。
軽く手で覆った顔に、自嘲とも苦笑ともつかない表情を浮かべて。


【終】

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