『三十一文字シリーズ・其の五』
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   古今和歌集・巻十九 雑体 一〇三〇
   「人にあはむ 月のなきには 思ひおきて 胸はしり火に 心やけをり」
                                      小野小町
      
     ―恋しいひとに逢う術がない夜は、
            胸を駆けめぐる想いの火に心が焼けて眠れない―

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パチ

パチン

焚き火の爆ぜる音がする。
今夜は月も、風もない。
木も草もじっと口を噤む中、星だけがうるさく輝いて瞬く音まで聞こえそうだ。
ごく当たり前のはずの静けさ、それが何故か引っ掛かる。

(…ああ、そうか……あれが居ないのか……)

永い時を生きてきた。その中で共にいたのは一年にも満たない時間。
短すぎて、比べる対象にもなりはしない。
なのに、この様は何だ?
人里に置いてきた後も感覚は無意識にりんを追い。
本来は必要ない休息をこうして取り。
そんな私の行動を、邪見も阿吽も疑問に思わず。
むしろ邪見などは、習慣故か手馴れた様子で火を熾し。
後で気付き、罰の悪そうな顔で恐る恐るこちらを窺う。
鬱陶しいことこの上ないが、わざわざ蹴るのも石を投げるのも面倒だ。
「あ、の…申し訳ありません! すぐに消しますっ!」
「………良い」
「はっ?」
「良い、と言ったのだ」
まだ何か言いたそうな奴を睨んで黙らせると、落ち着かない静寂が戻ってきた。
視線はつい揺れ踊る火に向かい、あるはずの無い像を映し出す。

――ねぇ邪見さま、もう焼けてるかな?
――え、まだ? 早く食べたいな……
――殺生丸さま、殺生丸さまも食べる?

くるくる表情を変えながら絶え間なく続くお喋り。
最初は煩わしかったそれが、心地よく耳を打つようになったのはいつからだったか……
既に髄の奥まで染みこんだ声が、匂いが、りんが欲しいと身体は叫びを上げている。
振り払うために瞼を閉じても、脳裏に焼きついたものは一層鮮やかさを増すだけだ。
浮かぶのは二つの笑顔。
ずっと見続けてきたものと、今日初めて見たもの。
あんな笑い方を、りんがするとは思わなかった。
今にも溢れ落ちそうな涙を湛えながら、それでも視線を逸らすことなくゆっくりと表情を和らげたりん。
決して無理に作っていたわけではない、だがその笑顔は、泣き顔よりも奥深く胸に突き刺さった。
そしてそれは今も抜けず、次々と新たな棘を生み出している。

これから、りんが人里で過ごす時間。それは今まで私と共にいたものより遥かに長くなるだろう。
いや、それどころかもう二度と………
そう考えた途端どうしようもない寒気と喪失感が襲い、この胸を裂いて中を掻き毟りたくなる。
……判っている。
選ばせるために、こうしたのだ。
やってくる《その時》、りんがどちらを選ぶのかはりんにも判らぬこと。
だが一方で、りんが私以外を選ぶなど有り得ないことも判っている。
驕りでも慢心でもない、ただそこに在る事実だ。
それでも消えない焦燥にじわじわと身の裡は灼かれ、侵されてゆく。
意味も無い思考に囚われ、残像を追い求めるのは脆さでしかないと知りながら。
自嘲する気は端からない―――それこそ、意味の無いことだ。

妙なものだと思う。
心を持て余しているというのに苛立ちはなく、面映ささえ感じているのだから。
渇望と虚無とぬくもりが綯い交ぜになったこの感覚も、そう悪い気はしない。

ふっ、とかすかな笑みが漏れた。
もし邪見がまだ起きていたら、目を落としそうなぐらいに丸くして硬直したに違いない。
それとも、もうそんな主にも少しは慣れただろうか。
どちらにせよ、冴えた氷のような金が一瞬、柔らかな蜜に溶けたことを知る者は誰もいない。
幻影(かげ)を誘った炎はとうに灰となり、煙の糸が細く細く闇に消える。
星は更に存在を主張し続けているが、もう煩わしさはない。

――……りんも、この星を見ているだろうか
――……泣いているのか、眠っているのか
――……だとしたら、その眠りは穏やかなのか

様子が目に見えないことのもどかしさ。
きっと私は、次の夜を待たずして再び足を向けるだろう。
不思議なほど確信がある。
涙交じりではない、いつもの笑顔を、見るために。


ゆっくりと廻る星空の下、妖は再び瞼を閉じた。
夜の水面のような静謐の内側に消えない灯火を抱きながら――……


【終】

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