『三十一文字シリーズ・其の四』
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 万葉集・第二巻 百十六番 
 「人言を繁(しげ)み 言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」
                            但馬皇女(たじまのひめみこ)
      
   ―人の噂が辛くて痛い、だからこそ。
     生まれて初めて、愛しいあの人に会うために夜明けの川を渡ります―

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――この川の向こうに、あのひとがいる。
約束をしたわけではない、待ってくれているかどうか判らない、
……それどころか追い返されるかも知れない。
それでも。
もう、こちら側には帰らない。


少女は一人、夜も明けきらぬ川を渡る。
刺すような冷たさも足を掬おうとする流れも厭わず、ただ前だけを見据えて。
後ろには靄に覆われた集落の影。
生まれ育ったそこさえも少女を止める力は無く、ぼんやりと灰色に霞むのみ。
それほど大きくはない、深さもやっと膝に届く程度の川。
なのに、それが生みだす隔たりは地の底までも深く、空の彼方よりも遠い。
すぐ傍に在るからこそ大きく聳える、不可侵の壁。
でも、本当に?
もしかしたら、勝手に作り上げた虚像に勝手に怯え拒んでいるだけなのかも知れない。
現に少女はそれを、身を以って知ったのだから。


「……また、来たのか」
「うん」

ごく短いやり取りの後に流れるのは沈黙。
紗を通した木漏れ日のような穏やかさの中に、ほんの少しの緊張を漂わせたそれはむしろ心地良い。
少女がいつになく真剣な眼差しを向ける、その理由……
問う必要はなかった。
一点の迷いもない強い瞳。それだけで、充分。
感情を滅多に出すことのない冷淡な金が柔らかに滲む。
己とは何もかもが異なるその存在を、愛おしげに映しだす。
立ち上がり、一歩二歩と間を縮め、止まった。
手を伸ばせば簡単に届く距離。
その僅かな隙間を、今まで突き崩せないでいた。
だが、もう――……

ゆっくりと差し出された、大きな手。
そっと重ねられた、小さな手。
触れた瞬間、腕を強く引かれた少女は焦がれて止まなかった胸へと抱きとめられた。
軋むほど抱き締められた身体に体温が直接流れ込んでくる。
知らず零れた吐息は、密やかでありながら極上に甘かった。
時が止まった抱擁の中。
不意に、何かを思い起こした少女が小さく笑う。
どこか可笑しがるようなそれに、妖は腕を解かないまま尋ねた。

「ふふ、あのね。言われた通りだなぁって思ったの」
「何がだ」
「小さかった頃にね、川向こうの森には絶対行っちゃいけないって。
 そこには主がいて、入りこんだ人間を惑わせるんだって。帰らなかった人が何人もいるらしいよ?」
「……勝手に迷って野垂れ死んだだけだ」
「ん、判ってる」

――惑わせたのはどちらだ。

頬をすり寄せながら漏らす、いたずらっぽい忍び笑いが耳をくすぐる。
そんな、幼い子供のような仕草でさえも己を惹きつけることを、この娘は判っていないに違いなかった。
やられっ放しはこの妖の性に合わない。
だが、違う表情を引き出そうと緩めた手が目的の場所へ行き着くことはなかった。
動きを阻まれた腕から伝わるのは、細かな震え。
その細さからは想像もつかないほど、強く握られていた。
唇も一文字に引き結ばれ、もう笑みを形づくってはいない。
「……傍に、いてもいいの?」
「お前は?」
「そんなの決まってるよ……一緒にいたい」
「なら、好きにしろ」

木々が、高く深く生い茂る森の更に奥。
始まりを告げる朝の光がふたりを優しく包み込む。
まるで、言葉の足りない妖の想いを代弁するように。


ある日ある朝、浅縹に透ける月と共に、一人の少女が姿を消した。


【終】

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