『三十一文字シリーズ・其の二』
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  古今和歌集・巻一 春歌上 六十四番 
  「散りぬれば 恋ふれどしるし なきものを 今日こそ桜 折らば折りてめ」
                                      詠人知らず

   ―散ってしまえば最後、いくら恋い焦がれたところで何の意味もない。
       ならば、咲いている今日のうちに折りたい桜なら折ってしまおう―
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折らないで

何故、そんな事を言う?
きれいだと、届かない一枝を飽かず眺めていたから手を伸ばしたというのに。
欲しいのではなかったのか?
すまなそうに開かれた口から聞こえた言葉も、私には理解の及ばぬもの。
美しいから折りたくはない、と。
短い間に散ってしまう花だから出来るだけ長く、と。
ただ眺め、自然に命を終わらせるまで見守るのも愛で方の一つなのか。

では、私はこの手に取ろう。
桜は手折ってしまえばそれまでのもの。
そのひと時は美しくとも、瞬きした次には泡と消える儚きもの。
だが、後に残る屍と足元に散らばる残骸を怖れるのは私は好かぬ。
折り取られた枝が上げる声無き悲鳴も、僅かな抵抗も、
花の淡い匂いも、艶やかな感触も、手にしなければ判らぬもの。
迷い、焦がれている内に散ってしまうこと程愚かなこともあるまい。
悔やみ、残像を追ったところで何になる。

――ならば、今。

咲いている、この瞬間に。

一時の悦の為――いや。
花弁が落ち、色褪せ土に還ろうとも変わらない。
散るのは咲く故に。
咲くのは散る故に。
枯れることの無い花ならば、愛でることもまた無いだろう。

桜で埋め尽くされた瞳をこちらに向ける。
混じり気の無い黒に映るのは私だけで良い……少なくとも、今だけは。
真っ直ぐに絡む視線の間、ひらりと落ちるひとかけら。
それに気を取られて薄く開いた唇を封じ込めた。

――この先に、何があるのか。

たとえ朽ち果てようとも、この腕の中以外、許しはしない。

最後の一刹那、その時まで。


【終】

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