『三十一文字シリーズ・其の十五』
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 古今和歌集・巻一 春歌上 五八番
 「誰しかも とめて折りつる 春霞 立ち隠すらむ 山の桜を」
                                紀貫之

   ―春霞が隠していたはずの山の桜
     そんなところへまで探し求め手折ったのは だれ―

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枯茶色に淡く芽吹いた若葉色が、陽を浴びて雨粒を受け、日に日に青く伸びていく。
光る風に乗って、花や湿った土の匂いが音を奏でる。
わけもなく心が浮きたって、じっとしていられない。
そこかしこであらゆる気配がさざめいている、そんな晴れた日。
「あれ?」
野菜を届けにきた彼女は、家の中に見慣れないものを見つけた。
水甕や行李、薪に薬草――簡素な空間にただひとつ咲いたそれは、一枝の桜。
萌黄の葉と共にひらいた花弁は白く、中心だけ羞じらうように仄かに色づいている。
それは触れれば消えてしまう沫雪を思わせた。
でも、生けてあるのは見覚えのある、飾り気なんてまったくない小さな素焼きの壺。確か祭りの時に弥勒が手に入れてきた酒壺だ。
一見不似合いな組み合わせだが、ちょこんと挿してある姿がなんだか可愛い。
「どうしたの? これ」
村に桜はなく、辺りの山に咲いているのも薄紅色か紅紫の混じったあざやかな色合いだ。
どこにあったのだろう。
問われた老巫女はどこか含みを持たせた微笑みを浮かべ、それだけで彼女はこの桜の辿った経緯を察した。
「へーぇ……」
――どんな顔して持ってきたんだか。
想像すると楽しいが、なにも考えていない気もする。性格という面では、結構似ている兄弟なのだ。
まあ、同じことを弟の方に期待するのは難しいけれど。
軽く噴き出してしまった笑いに、「どうした?」と訝しげな声が返る。
「なんでもない。じゃあ戻るねー」
このことを話したら、どんな反応をするだろう。
きっと決まり悪そうに眉を歪ませ、あらぬ方を向きながら「けっ」と悪態をつくに違いない。
その顔がいとも容易に想像でき、彼女は足取りも軽やかにすっかり馴染んだわが家を目指した。



「あんまり遠くに行っちゃ駄目だからね」
「はーい」
「はーい」
母親の刺した釘に同じ声がふたつ揃った。ついでに言うと、顔立ちも背格好も瓜ふたつ。
元気いっぱいの笑顔をふりまきながら駆けていく娘たちに目を細め、背におぶった息子をあやす。
仰ぐ空は穏やかで小さな綿雲が所々、昼寝でも楽しむようにふわふわ揺蕩い、その遥か先に連なる真新しい色の山々はほんのりと霞む。
どこまでもあたたかな空間と、その中に佇んでいる自分。
数年前までの苛烈な戦いの日々。
胸に滲むものを噛みしめつつ、母となった退治屋はそっと腰を下ろした。
ようやく生まれてから一年を迎えた幼子は、紐が解かれ地に手足がつくと周りの草をいじったり虫を見つめたりと忙しそうだ。
村近くのなだらかな丘。
子供にせがまれ、少し時間に余裕もあったので、近場ならと出かけることにした。
滅多にないことだが、たまにはいいかなとも思う。
「あっもう、なにしてんの」
横でひとり遊びしていた息子が、今まさに捕まえた虫を口に入れようとしているところだった。
ほんのちょっと目を離したらこれだ。
おもちゃを取り上げられた手はその先を追って宙へ伸び、丸い瞳は不満げに、まだ薄い眉を八の字にして見上げてくる。
まだ歩くことも儘ならないこの子も、すぐ姉たちに交じって走り回るようになるのだろう。
やわらかに笑んだその目を、なにか白いものが掠めた。
「雪……?」
名残雪かのように見えたそのかけらは、しかし触れても溶けない。
桜の、花びらだった。
よく見ると他にも二、三枚ほど落ちている。この辺りには咲かない色だから、風で飛ばされてきたのだろうか。
「……あ」
ぴん、ときた。
なにか花を生けられるような器はないかと、昨日尋ねてきた少女。
ここには存在しない桜。
そして今、自分のいるこの場所は確か――。
「……ふぅん……」
判断材料としてはかなり頼りない。でも、確信した。
たぶんこれも女の勘というものだろう。
指につまんで眺めていると、なんだか笑いがこみ上げてくる。
「ははうえー」
「それなにー」
いつの間にか娘たちが戻ってきていた。不思議そうな視線がふたり分、母の手に注がれる。
「桜の花びらだよ」
「きれーい」
「どこにさいてるのー?」
「みたいー」
交互に綴られるあどけない声に口元が綻ぶ。
「そうだね、どこの桜なんだろうねぇ……」
やさしい風が、うららかな丘を撫でていった。



棚引く霞に包まれる奥深き山中に人の気配はない。
湿り気を帯びた緑や土の匂いは濃く、里のそれとはまた異質なものだ。
草木の色も深浅が重なりあい、どこからか届く獣の声が細く響き渡る。
その山々の合間を縫いながら流れる川沿いを、のんびりと異形の牛が歩いていた。
背に乗せているのはひとりの翁。こぼれ落ちそうなほど大きな丸い眼がそっくりの、飼い主と飼い牛だ。
くあ、と大口を開けてあくびを一回。気持ちよさそうに空を見上げた。
渓谷から覗く青は、ほのぼのとして澄んではいない。漂う涼気もひんやりしているが差す光はあたたかく、間違いなく春のそれだ。
水は温み、歌うような鳥の囀りも聞こえてくる。
――いい日和だ。
草一本生えない焦熱の地に居を構え、自らも炎を吹く妖である。寒暖でなにを影響されるわけでもないが、それでも春は心地よいと感じるものだ。
いつもなら空を飛ぶのを歩くことにしてよかった。
こういうのも、悪くない。
「おっ」
緑に覆われていた景色が一変した。
それは川岸に咲いた、ただ一本の桜。幾星霜を経たであろうその枝ぶりは見事で、咲き誇る淡い白と若葉が瑞々しい。
牛を止めてしばらく眺めていた妖だったが、ある一点に目が留まった。
枝がそこだけ、不自然に折られているのだ。
「こんなとこに桜狩り、か……?」
訝りながらもその枝に近づいてみる。
手にとって軽く引き寄せると、刹那、妖の感覚がなにかを捉えた。
反射的にばっと手を離す。
花の香りではない。むしろ対極。そしてよく知っている。
「……まさかな」
――いや、ひょっとすると、あり得るかも知れない。
答えを求めて枝を見つめても残滓は既に消え失せ、桜は素知らぬ顔で咲いている。
ぽりぽりと頭を掻く。
思考を放棄した老爺は、その場を立ち去ることに決めた。



【終】

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