『三十一文字シリーズ・其の十四』
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 古今和歌集・巻十二 恋歌二 六一一番
  「わが恋は ゆくへも知らず はてもなし 逢ふを限りと 思ふばかりぞ」
                                    凡河内躬恒
    ―この心は何処へゆくとも知れず 何処で果てるとも判らない
        今この瞬間が最後になるのだと ただそれだけを―

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あれはいつも笑っていた。
何がそれほど楽しいのか、理解する気もない私はただそれを眺めていた。
だがこの時、ひなたを匂わせる笑顔は一度も向けられなかった。

敏い娘だ。
強情なところもあるが、大抵の場合において素直な気質でもある。
失言だと思えば、過ちと知れば即座に謝ってくるだろう。
波紋ひとつない水面のごとく、静けさのみを湛えて告げられた言葉。
そらすことなく、まっすぐに見上げてきた丸い双眸。
その中にも揺らぎはない。
何も、無かった。
黒く透みわたる眼差しはいつも溢れるほどすべてを語ってきたというのに。
それの意味するものは、ひとつ。
虚空を掴む冷えた感覚がどろりと炎を立ち上らせる。
腸に渦巻くものが煮え、溶け出した澱が溜まりゆく先で熱を帯び毒に変わる。
穏やかな声音が綴るのは戯言ばかり。
耳に馴染んだその響きは、苛立ちを募らせるものでしかなかった。

――謀っていたというのか。

雛のあどけなさの裏側で、何もかもを捨てていたと。
息を切らして背を追いながら、手を伸ばしてはいなかったのだと。

――いいだろう。

それほどに望むなら。
毒に染まった手を伸ばす間も身動きひとつせず、漆黒の玻璃に瞼が静かに下ろされる。
触れたのは細い首。
皮膚の下で命が脈打ち、そこから薄いぬくもりが染み伝う。
瞼はしんと閉じられたまま。
手は勝手に動いた。
首筋をなぞり、頤を辿って頬に行き着く。
そういえば、いつからかこんな風に触れることはなくなっていた。
意識していたわけではなく、きっかけと言えることがあったのかも定かではない。
奥底に重く横たわるもの、その正体すら。
激情はいつのまにか鳴りを潜め、指は記憶との差異を埋めようと輪郭を撫ぜる。
眸はまだ開かれない。
ふと、爪先が耳朶を掠めた。
やわらかな、あまりに鮮やかなその感触に冷たい何かが背を走る。
覚えのある感覚だった。

――ばかな。

軋む音を黙殺し、指を浮かす。
意味のない行為を終わらせるために。
無為に引き延ばしたところで、答えを得られるはずもない。
だが、それを察したかのように娘の手が重ねられた。

「放せ」

掌にすりつけるように、かぶりを振った。
幼い頃と同じ癖の、だがその頃よりも伸びた髪が揺れて指先にふれる。
そんな些細なことさえも鋭敏に、一筋一筋のやわらかさまで神経は拾い取った。
命令に意味などなく、首と同様に細いこの手をふりほどくのは容易い。
力も入っていない、添えられているだけの手なのだ。

――そうやって、お前は委ねるのか。

口元が自嘲に歪んだ。
既に石は水面へ投げ入れられている。
束の間の波紋が生むのは知るはずのなかった、寂寞。

「りん」

名を呼ぶと、ようやく目を開けた。
やはりそこには怖れも期待も、ひとかけらの懇願も存在しない。
頬と掌から体温だけが流れこみ続け、私を侵蝕する。
縊るはずだった手は目的を失い、なされるが儘。
……お前は、この手がもたらすものが愛撫であろうと死であろうと、すべて等しく是と笑うのだろう。
それを人間のみが持ち得る傲慢だというのなら、喰らい尽くしてみせるがいい。
成らねば私が喰らうまで。
骨の一片も髪一筋も、跡形もなく。



今、娘は笑っている。
この手の届く場所で。
いつまで続くのか、指折り数える気はない。
喰らうのがどちらでも、その時が来ても、同じこと。
私はただ、立つ。



【終】

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