『三十一文字シリーズ・其の十一』
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 古今和歌集・巻六 冬歌 三二四番
  「白雪の ところもわかず 降りしけば 巌にも咲く 花とこそ見れ」
                                   紀秋岑
    ―所構わず降り敷く白雪に彩られ
     重々しい巌もまるで花が咲いているようだ―

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「殺生丸! 殺生丸はいるか?」
「はい、父上っ」
跳ね上げた御簾が後ろで不満げな音を立てたが気にしなかった。
駆け寄ると、その立場らしからぬ少年のような笑顔で両腕を差し出される。
逡巡して、躊躇いながらも歩を進めれば軽々と抱き上げられ、遥かに見上げていた目線が一気に近くなった。
左腕に乗せられて向かい合う。
「また少し大きくなったな」
「……昨日お会いしましたが」
「子供は日々成長するものだ」
 ――なら。何故。
「……父上」
「ん?」
「まだ、剣を習ってはいけませんか」
何度目とも知れぬ問いに、父は笑いながら頭を撫でて髪を梳く。
肩でまっすぐ揃った髪が首筋をくすぐって、妙に落ち着かない。
「今から鍛錬などしなくていい。それより遊べ」
今日はちょうど雪が積もってるだろう、と視線で庭を促された。
「興味ありません」
そんなことよりも。一日でも、一刻でも早く。早く。
希うのはたったひとつなのに、その先にいる父は押しとどめるように額へ手を当て前髪を掻き混ぜる。
また、だ。
無骨なぬくもりは、いつも自分から言葉を奪ってしまう。
「――少し付き合え」
「え?」
唐突の誘いに、噛みしめた唇から戸惑いが漏れた。
目の前の温顔からは何も窺えない。
「父上、どこへ――」
言い終わらぬうちに視界は急激に引き上げられ、今の今までいた邸は見る間に小さくなっていく。
雪はすでに止み、僅かな雲間からは透き通った蒼が零れている。
風が強い。
「殺生丸」
「はい」
よく通る声だった。
「何が見える?」
見渡す世界。そこはただ白く、点在する枯茶色は染みのようだ。
平坦でつまらない風景。
その中で蠢く矮小な気配も、鬱陶しいものでしかなかった。
それが正しい答えでないことは判っていたが、かといって父の意図が読めるわけでもない。
だが、問うことだけはしたくなかった。
「…………殺生丸」
包む声は穏やかに耳朶を打ち、答えを急かそうとはしない。
父は全部判っているのだろう。
焦りも、悔しさも、憧憬も、帰ってきたことを知っても自分から会いに行けない幼稚さも。
子供だからと思われたくない。
そんなものを理由にされたくも、したくもない。
強く、なりたい。
食いしばる奥歯が、鈍い音を立てた。
「……そんな顔をするな」
どんな顔を、しているというのだろう。
「降りるぞ」
そう言って、今度は殊更ゆっくりと下降していった。
平面的だった白は徐々に形を取り戻し、山は木となり、木は枝となり、枝は一葉となる。
細かな淡い陰影と不規則な瞬きは、それがひとつひとつ精緻な結晶で成り立っていることを示していた。
ふわりと、それこそ雪のひとひらのように父が降り立った場所は、邸からそう遠くない山の中腹。
痛いほど澄んだ小川を見下ろす、ごつごつした岩が幾重にも重なって突き出したその崖は、明らかに周囲とは異質な筈だ。
春は桜、夏は濃緑、秋は紅葉に染まる中で常に変わらず黒く塗り潰されている。
それが、今だけは等しく雪を斑に被っていた。
重く沈んだ鉄黒を彩るやわらかな純白。
凍りついた草木の代わりに咲いているようで、周りを囲む雪持ちの枝もくまなく繊細な彫刻となっている。
「……美しいな」
話しかけているようであり、独り言のようでもあった。
「遠くから眺めるだけでは判らん」
だから、何も答えずにいた。
「こんな巌にも、花が咲くのだな」
――何を言いたいのか。
不意に屈んで足元を掬い、そのまま掌を差し出された。
積み上げられた脆い結晶は妖の手にさえ耐えきれず、水滴となって跡形無く消え失せた。
「……お前は純粋すぎる。それに耐えられるだけの強さも、持っている」
そこが心配だと、小さくわらう。
同じ高さで細められた琥珀の中にいる自分は、窒息した昆虫のようだった。
「だが、お前にもいつか雪が見つかる。その日が楽しみだ」
穏やかな笑みと共に、父は立ち上がった。
瞬間、憤りにも似た冷たい渦が胸裡を駆け巡る。
それをぶつける場所も消化する術も持たず、手を握り締め、遠くなった父を精一杯睨んだ。
「――明日から、師をつけよう」
雲が割れる。
射し込む光が反射して、目を背けたくなるほど眩しかった。



【終】

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