『三十一文字シリーズ・其の十』
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 古今和歌集・巻十三 恋歌三 六四六番
 「かきくらす 心の闇に 惑ひにき 夢うつつとは 世人さだめよ」
                                在原業平
    ―真っ暗な心の闇に惑ってしまったのだ
        夢だったのか現実だったのか 私には判らない―

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焼けつくような太陽が、背を舐める。
伝う汗がまたひとつ、ぽたりと落ちる。
ただ竜に乗っているだけでも、夏の陽射しは幼い身体にまで容赦ない。
じっとしているのに呼吸は浅く速くなり、渇きだけが増していく。
地に映る真っ黒な影は焦げついた痕のよう。
それでも前を行く背中は悠々として、涼しげでさえあった。
溶けかけた思考の片隅で、すごいなぁ、とぼんやり思う。
身を匿えるものなど何もない広野をただ進み、ようやく視界にひょっこり突き出た緑が見えた。

「ふー……」
重くなった身体を幹に預け、ゆっくりと息を吐き出した。
やわらかく揺れる木陰は涼をもたらし、間から零れる光はきらきら瞬く。
ついさっきと同じ太陽は、緑を通した途端にやさしい色になっていた。
目を閉じれば、さやさや流れる葉ずれの音と蝉時雨。
心地よい風に汗は嘘のようにひき、煮えた頭の熱や痛みも徐々に治まってくる。
今ここにいるのは、りんと阿吽だけ。
殺生丸は林に入るなり空へ飛翔し、主に呼ばれて意図を察した邪見は愚痴をこぼしながら空の竹筒を抱えて奥へと消えた。
誰の為かなんて訊くまでもない。
(あたしが、行かなきゃ……)
そう思いながら、沈む瞼をどうしても上げられなかった。

風ではない何かが髪を撫でて意識が浮上する。
そろそろと目を開けると、誰かが目の前にいた。
(殺生丸、さま……?)
咄嗟に判断できなかったのは、まだ頭がぼうっとしてるからだけじゃなかった。
見えないのだ。
こんなに明るい日差しが降り注いでいるのに、ここだけが暗い。
――こわい。
何故だか、唐突にそう感じた。
今までそんなの、欠片も思ったことなんかないのに。
怒られてるわけでもないのに。
速まる鼓動はうるさくなるばかりで、どうすることもできない。
あざやかな光の中、切り取られた闇にいる殺生丸からは何も窺えず、意味の判らない焦燥だけが募る。
髪を離れた手が、無言のまま頬に触れた。
途端、世界じゅうの音が消える。
見えない眸と眸が絡みあう。
動けない。
頭の中が真っ白で、言葉も出ない。
渇いた喉が、更に渇く。
確かなのは包み込むような掌の感触と、切り裂くような鋭い視線。

――ねえ、見えないの。
明るすぎて、眩しすぎて、真っ暗で。
殺生丸さまが見えない。
どんな顔をしているの。
どうして、触ってるの。
どうして、あたしは指の一本も動かせないの。
こんなの知らない。
どうして。どうして。

途方もなく長い一瞬だった。
手が離れて黒い輪郭に光が差すと、いつもと変わらない同じ顔が見えた。
ふいと背を向けて、何事もなかったように歩き出し、りんは一人取り残される。
再び鳴りはじめた蝉の声もどこか遠い。
次いで耳慣れた濁声が響き渡り、りんはそこでやっと覚醒した。
「りーんっ! ほれ水じゃ、まったく世話のやける……」
既に癖となっている悪態が半端に途切れ、反応の鈍い少女に首を傾げる。
「何じゃりん、暑気あたりか? ぼーっとしおって」
「ううん……大丈夫、何でもない……」
そう、何でもない。
別に特別なことなんて、何もないのだ。
ただ触れられただけ。
ただ暗くて顔が見えなかっただけ。
それだけだ。

でも。
(……なんだか、違うひとみたいだった……)
それも、気のせいだと思うけど。

眩い光が深い影を生みだし見せた、白昼夢。
熱の余韻にうかされた頬を色づかせ、篭った吐息を零す。
少女は自分自身を持て余し、小さな胸は早鐘を打ち続けた。
視たのは幻か否か、唯一知る緑の木々はただ、ざわざわと。
――木の下闇。



【終】

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