『三十一文字シリーズ・其の一』
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    古今和歌集・巻一 春歌上 四十一番 
    「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」
                       凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
      
     ―春の夜の闇など、空しく意味が無いものだ。
       花の色こそ見えないが、その香りまで隠れることがあるだろうか―
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陽は疾うに沈み、世界は無明に落ちている。
標をもたらしてくれる月も無く、在るのは文目も分かぬ闇ばかり。
そんな中であっても、決して紛れることのないその存在。
妖はひとり、迷うことなく歩を進める。
己を待つ者の元へと。

程なくして、暗夜にぼんやりとした薄明かりが浮かぶ。
妖の従僕が人間の少女の為にと、熾したものだ。
その火は弱々しく揺らめいて、新たに薪をくべる必要があった。
だがそこに、肝心の少女は見当たらない。
常ならば、小動物のように丸まって眠る姿が明かりに優しく映し出される。
そして己が近付くと必ず瞼を開き、ほんわりと笑って見せるのだ。

――おかえりなさい、殺生丸さま。
――何故、判った?
――うーん……何となく。自然と、目が覚めちゃうんだ。
  ほんとはね、帰って来てくれるまで起きてようって思ったんだけど……
――待つ必要はない。寝ろ。
――だって、おかえりなさいって言いたいんだもん。朝じゃなくて、帰ってくれたその時に。
  あっそうだ、殺生丸さま。あのね、今日……

今夜も同じような会話が為されるものと、無意識のうちに思っていた妖の表情は険しくなった。
匂いは確かに此処からする。怪しげな臭いもない。
離れたわけでもなければ、以前のように攫われたわけでもない。
では、何処に?
呑気に眠りこけている従僕を踏み潰そうかと思ったが、煩いだけなので止めた。
匂いを辿れば済むことだ。
事実、少女の居所は既に知れていた。
それの漂ってくる先を見上げた妖は、先程とはまた違った意味で眉を顰める。
そこは木の上。
焚き火のすぐ傍にあるその木は然程高くはないが、もし子供が落ちれば只では済まない。
殆ど力も込めず、音も無く、匂いの元へと跳ぶ。
そよ風よりも更にそっと。
枝に腰掛け、幹に寄りかかり、実に不安定な状態で少女は眠っていた。
よく己が戻るまで無事だったと思う。
安堵の息を合図のように、ゆっくりと開かれた黒い瞳。
その中にいる己の顔はひどく穏やかだ。

「……殺生丸さま……おかえりなさい」

いつもの笑顔、いつもの言葉。
あって当然、無くてはならないもの。

「こんな所で何をしている」
「え……あ、そっか……また寝ちゃったんだ。最初は下で寝てたんだけどね、目が覚めちゃって。その時は殺生丸さま、まだ帰ってなくて……だから、今日は絶対起きて待ってようと思ったの」
「それが何故木に登ることになる」
「殺生丸さまが、帰ってくるのが一番早く判るかなと思って」
そう言って邪気の無い笑みを向けられては、もう何も言えない。
問答を終わらせ、少女を抱き上げた妖の姿は一瞬の後、もう地に在った。
だが少女を降ろす素振りはなく、そのまま同じ木の根元に座す。
「殺生丸さま?」
「さっさと寝ろ」
「んっと……ここで寝てもいいの?」
「もう、火は消えている。再度つけるまでも無いだろう」

自分を心配してくれたのが嬉しくて、こんなに近くにいられるのが嬉しくて、もこもこの中にもぐり込んだ。とても、暖かい。

「ありがとう、殺生丸さま」
「……こんな月明かりも無い中、よく登れたな」
「焚き火がついてたし、昼間も登ったから。邪見さまには怒られちゃったけど。あ、ねえ殺生丸さまも、真っ暗なのに何で木の上にいるって判ったの?」
「匂いで判る」
そうだったねと笑い、間もなく少女は夢の世界を漂い始めた。
妖も、眠りはしないが目を閉じる。
何も映らない世界で、少女の甘い匂いと息遣いと肌の感触だけが妖を占める。
たとえ何一つ見えない常闇であっても、この匂いが――道標。


【終】

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