『三十一文字シリーズ・其の十三』
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 古今和歌集・巻十一 恋歌一 五四四番
  「夏虫の 身をいたづらに なすことも ひとつ思ひに よりてなりけり」
                                   読人知らず
    ―夏虫が炎に飛びこみ身を滅ぼすのも
     わたしが身を焦がすのも それは同じ『思ひ』の『火』故に―

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舞う火の粉の美しさに虫は過ぎた望みを抱く。
紅の襞のゆらめきに己を忘れ、闇を知る。
そして灼熱と目を覆う煌めきに包まれるとき、虫は刹那の至福を得る。



言うつもりはなかった。
それは自分の中に思い留めていることで、告げる気もなければ告げることでもなかった。
でも、もう遅い。
言葉にしてしまった。
言葉にするということは、力を与えるということ。
無かったことにはできない。

「――いつから」

沈黙を裂いた声は怖いほど静かだ。
底の見えない淵のように、何ひとつ映さない。

「いつからだ」

なのに、深沈と落とされるその問いは不思議とよく響いた。

「ずっと前から。殺生丸さまが助けてくれたあの日から、ずっと」

目を覚ました時は何が自分に起きたのか判らなかった。
どこも痛くなくて、でもべっとりついた血は鮮やかでまとわりつく臭いは鼻をついて、記憶と目の前の現実がつながらなくて戸惑った。
後で、殺生丸さまが生き返らせてくれたのだと知った。
その時からずっと胸にあったこと。
あたしはあの日、確かに死んだのだから。

「ふざけたことを」

低い声音はそのままに、見下ろす金色が不穏な光を宿す。
燠火で炙ったようなその色が示すものは――怒り。
獣のまなこが、心の臓まで貫く鋭さでりんを射抜いている。
でも、怒りだけじゃない。
でも、何なのかは判らない。
憎しみにも似たそれを受けながら、不思議だなとまるで他人事のように思った。
突き刺さる皮膚はぴりぴりと痛みを訴えているのに、何故か自分の心は静けさを保ち、いつもと同じように頭一つ分以上高いその場所を見つめ続けている。

「――もし、この先あたしが、」

視線を少し落とす。
優しい仕草でそっと添えられる物言わぬ手は、今はかたく拳を握りしめていた。
甲にはっきりと筋を浮き上がらせ、ぎり、と長い指を掌に巻き込んで。
今にも血が滴ってしまうのではないかと危ぶむほどに。
すらりときれいな手はさわると意外に硬質で、刀を持つためのものだと知らされる。
そこからじんわり伝わる低い体温は、いつも何よりもりんをあたためてくれた。
いつからだろう。
ごく稀に触れてくれるその手が、包みこむ掌から素っ気ない指の背へと変わったのは。

「あたしが、いらなくなる時がきたら……」
「思い上がるな」

拳が更に強張る。
尖った爪も、一層深く膚へ食い込んでるに違いない。
肺腑を引き絞る痛みで、りんは願う。
火に群がる虫と同じように、まばゆい光に焦がれ塵になると知りながら、なおも願ってしまう。
闇に冴えわたる月よりも白く、炎に撒き散らす鱗粉よりも紅く燃えるその爪を、どこかへ向けずにはいられないのなら。
孕む毒が、溢れてあなた自身を蝕むのなら。
どうかそれは――

「……殺生丸さま」

一歩近づいてから続けた言葉に、こがねの双眸が揺れる。
きつく結ばれた唇は何も言わない。
ゆっくりと、緩慢な動作で拳が解かれる。
重たげに、どこか苦しげに、その手が伸ばされる。
あたしは瞼を閉じて、傲慢なあたしを呑みこんだ。



『ねえ、邪見さま』
『ん〜?』
『なんで蛾は焚き火に寄ってくるのかなあ。燃えちゃうかも知れないのに』
『光に集まるただの習性じゃ。くだらんこと言ってないでとっとと寝ろ』
『はーい。殺生丸さま、早く帰ってくるといいねー……』




【終】

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