『三十一文字シリーズ・其の十二』
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 古今和歌集・巻十三 恋歌三 六三三番
  「しのぶれど 恋しき時は あしひきの 山より月の いでてこそくれ」
                                   紀貫之
    ―どんなに隠して抑えていても恋しい時
        それはまるで山から月が昇るように自然に―

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視線に気付き、少女は軽く首を傾げてどうしたのか問うた。
そのまるく透き通った瞳の色に、返す笑みは知らずごまかすような曖昧なものになる。
「ううん、大したことじゃないの。――ただ、楽しそうだなぁと思って。野宿は嫌じゃないの?」
「はい! 旅してた頃に戻ったみたいで嬉しくて、なんだか落ち着きます」
「そう……」
間を置かずに出た答え。
声には一切の迷いも何も無く、笑顔にもまた言葉に表された以外の色は無かった。
他意も打算も、一抹の怖れとさえ無縁の無垢な感情。
子供らしい微笑ましいそれはいっそ、痛々しいまでに。
――自覚は、ないのよね。
でもだからこそ、それの持つ意味は重い。
思考を巡らせながらの歯切れの悪い相槌にりんは訝しみ、姉のように慕っている彼女の顔を覗きこんだ。
「あの……あたし、何か変なこと言いました……?」
「え? ――ああ違うの、全然変じゃないわよ。私も懐かしいし」
意識して明るく言うと、りんはほっと息をついて小さくなりかけた火に枝をくべた。
ぱちぱちと爆ぜる音が夜の森へ溶けゆき、揺らめく炎が少女の貌に橙色の陰影を漂わせる。
やや伏せがちなせいだろうか、ひどく大人びた表情だった。
(女の子らしくなったなぁ……)
袂をそっと押さえる所作ひとつを見てもそれは明らかで。
手や指のかたちも、もみじのようと表する子供らしさは徐々に抜けて華奢さが目立つようになってきた。
三年ぶりに会った時もその成長に目を瞠ったものだが、それから既に一年以上が経っている。
子供にとっての四年はとてつもなく大きくて濃密だ。
現代で言えば、小学生も高校生になるくらいに。
故郷と永遠に別れてこの時代へ来ることを決めた四年前、自分は何を考えていただろう。
中学三年生になる直前、とうとう受験の壁に向かわなきゃいけない憂鬱さと学年が上がる喜びや期待が混じりあいながらも、気楽な春休みを味わっていたはずだ。
将来、と言われてもピンとこなくて、まじめに考えたことなんかなくて。
祠の井戸やご神木だって目を留めたことすらない、あってもなくても同じようなその程度の存在だった。

それほどの長い間。
飢えることも、虐げられることもない温かな日々。
人としての本来の暮らし。
それでも。
少女の居場所は、今もここではないのだ。

ふいに情景が蘇った。
気を失っていた少女が、目覚めて最初に口にした言葉は妖の名だった。
満面の笑顔で、ありったけの思慕をこめて。
妖は声に答えることなく歩を進めた。
少女は迷いなく後を追った。
悠然と歩く背中は一度も振り向かなかった。
まるで、ついてくるのは当然だというように。
もしこの先。
少女が、再び妖と共にゆく時がくるとしたら。
その時もやはり振り向かないままなんだろうか。
まるで、隣にいるのは当然だというように。


「会いたいな……」
葉音と焚き火の爆ぜる音が埋める沈黙の中、それはごく自然に少女の口をついて出た。
ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな小さな呟き。
誰に、など決まりきっている。
少女がみているのは茫洋に映す眼前の炎などではなくその向こう側、少しだけ離れて腰をおろしていたであろう、かの妖の横顔に違いない。
自らの膝を抱く手に、きゅっと力を篭めているのが判った。
普段、少女が寂しさを見せることはない。
いつも元気にくるくるとよく動いて、いつも笑っている。
それが無理につくられたものでないことも知っている。
だがそれでもこんな風に、ふとしたことがきっかけで唐突に恋しさや焦燥は襲ってくるのだ。
かつて自分がそうであったように。
――最後の訪れから十日あまり。
そう遠くないうちに、少女の声は聞き届けられるだろう。
夜の音に紛れて慣れた騒がしい話し声が聞こえてくる。
彼女は頬を緩ませ、月の出にはもうしばらくかかる星空を仰いだ。



【終】

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