『しるし』 四
「――姑獲鳥?」
聞き覚えのない名であった。視線で、続きを促す。
「姑獲鳥は元々、大陸の妖怪です。鳥の姿を取っておりますが、毛衣を脱ぐと女人になるとか。自分の獲物に定めた子供の着物に、自らの血で誌をつけ、その子供は無辜疳という病に罹ります。血が弱り、律液が枯れることによって体は勿論、精神も衰弱します。進行すると腹は膨らみ、青筋が浮かび上がるそうです。りんはまだ、そこまで行ってはおりませんが、このままですと、いずれは命に関わるでしょうな……」
「獲物ということは、そやつはりんを喰おうとしておったのか!?」
何と言う命知らずなヤツかと、邪見は身震いした。そんな事をしたら主がどうするか、想像するだに怖ろしい。
「いや、姑獲鳥が子供を攫うのは自分の子にする為だそうじゃ。確かに、人間の魂魄は喰うそうじゃがな。何故か攫うのは女子ばかりとか。とにかく、りんの病を治すには……あっ殺生丸さま!?」
冥加の言を最後まで聞くことなく、殺生丸は空へ舞い上がる。
そこまで聞けば充分だ。もし、妖怪を滅する以外に治癒の手立てがあるのなら、と思いここまで出向いたが、元を断つしか方は無いと判れば長居は無用だ。
癪に障るが、刀々斎の所ならば少しはましであろう。
* * *
文字通り、あっという間に姿が見えなくなった空を見上げながら、老妖怪が呟く。
「ったく、相変わらずせっかちな野郎だな。――ま、無理ないかも知れねぇがな」
それにしても、と続けながらりんを奥に運び、いつもは自分の寝床であるその場所に寝かせる。
「――解せねぇよなぁ……」
「お主もそう思うか?」
「あー、お前もか? 冥加」
「何がじゃっ!?」
すっかり一人会話から外された邪見が叫ぶ。
「何で姑獲鳥ってヤツがりんを狙ったか、に決まってんだろ」
「そんなもの、たまたま目に留まっただけだろうが!」
何、馬鹿なことを言ってるんだと口を尖らせる邪見に、やれやれと首を振りながら刀々斎は続けた。
「いいか、りんはずっとお前らと旅をしてるんだろ? その所為で、殺生丸のにおいや妖気がりんに付いちまってるんだよ。殺生丸が傍にいない時でも、りんからはあいつのにおいが漂ってくる。犬妖じゃなくても判るぐらいにな。そのにおいで、たとえ殺生丸を知らないヤツでも、只者じゃないって事は誰にでも判る。傍には阿吽もいたんだろうが? 子供なら、そこらの村に行けば幾らでもいるってのに、何でわざわざ狙えば自分に危険が及ぶかも知れねぇりんを、獲物に選ぶ必要があるんだ?」
お前は毎日一緒にいるから気付いてないんだろうけどな、と刀々斎が嘆息する。
――そう。姑獲鳥は、りんを殺生丸の連れと認識した上で自らの獲物とし、誌をつけたのである。
(で、では、まさか姑獲鳥は殺生丸さまを狙ってりん……?)
事が、自分の思っていたよりずっと複雑だと漸く悟った邪見は俄かに慌て出した。
うろうろ歩き回っては頭を抱える、という無意味な行動を馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。
そんな下僕妖怪を尻目に、あとの二人は何と酒を酌み交わしている。
あまりといえば、あまりな態度に開いた口が塞がらない邪見に、刀々斎がひとこと投げる。
「大物妖怪じゃねぇんだから、そんなに心配する必要はねーだろ。あいつだって、薄々感づいてるだろうさ。どっちにしろ、今の状態じゃ治す手立てはない。殺生丸に任すしかないんだからよ」
――確かに、刀々斎や冥加が気付いて殺生丸が気付かないという事もないだろう。
そう納得したのか、はたまた自分が焦っても意味はないと諦めたのか、邪見は溜め息をつきながら眠っているりんの傍らに腰を下ろした。
* * *
蒼穹を往く、白銀の妖。
殺生丸は迷いなくある一点を目指して空を駆っていた。
一時は掻き消えた姑獲鳥の臭いが、今は鮮明にその場所を示している。だがその臭いは、わざと洩らしているような不自然さがあった。
(この私を誘き寄せるつもりか……)
そう、判ってはいる。いつもなら鬱陶しいと思うだけで相手になどしない。
が、今は捨て置くわけにはいかなかった。
奴を倒す以外に、りんの病を治す手立てはないのだから。
暫くして、殺生丸はある森に降り立った。
森の中は光を拒むかのように木々が生い茂り、まだ日は落ちていないというのに鬱蒼として薄暗い。
普段は我が物顔で闊歩しているのであろう獣らは、今だけはすっかり鳴りを潜めている。
一層不気味さが増した森を、臭いを辿り進んでいく。
やがて少し視界が開け、そこには森が切り取られたように野辺が広がっていた。
まるでそこだけ違う空気が流れているような森閑とした場に、女が一人佇んでいる姿が金の眸に映し出される。
その相貌には、冷たい笑みを浮かべていた――。
[H20.11.21]
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