お前は笑う。
お前は泣く。
私を責める同じ眼に思慕を浮かべる。
身体は在ってもお前はいない。
……お前は、何処にいる?




  『深淵』




結界に誰かが触れた。――いや、《誰か》ではない。
あれに触れる可能性がある者は、唯ひとりだ。

中に入る前からまざまざと届く血のにおい。
この先にいるのは、どのお前なのか……
捉えどころの無い、墨をぼかしたような空間の中に佇むお前の眼は人間のそれでは最早無く。
指を伝う朱(あか)だけが鮮やかすぎる色を持ち。
それを拭うこともせずに立ち尽くす。
……お前は本当に、今ここにいるのか?
確かめる為に、名を呼んだ。

        りん。

何度も、何度も。
名を重ねるごとにお前が戻ってくる。
やがて、たどたどしく紡ぎ出された己の名にひどく安堵した。
嗤いたく、なるほどに。
痛々しい小さな手、その温もりが訴える傷は躰かそれとも魂なのか。

血の味と色とにおいが責めるように纏わりつく。
もう、何度目になるのか。
こうしてお前が自らに傷をつけるのは。
覚えていないのだろう、こんな事を何度繰り返しているかなど。
昨日のこともその前も……《昨日》という概念さえ既に無い。
今の自分に繋がる総てを、名すらも底深くに沈めたお前。
それがお前の痛みであり、精一杯の抵抗の証なのだろう。
人が人である為の総てを奪った私への。
お前を案じるように見せかけて、ただ怖れているだけなのだ。

「…苦しいか?」

そうさせたのは己だというに。

「…哀しいか?」

判りきったことを、一体何度。

「…戻りたいか?」

たとえ望んだとしても、叶えてやるつもりなど更々無いものを。

お前が否定すると知っていながら、尚も訊く。
まるで、これはお前も望んだ事だと言うように。
この上なく卑怯な問いに返されるのは、予想していた通りの答えと澄んだ穏やかな笑顔。
今にも消えそうなそれに、浅いようで遠い記憶が蘇る。
あの日私は、総てを呑みこむ昏い水の底へとお前を引きずり込んだのだ。

―ここ、どこ? 殺生丸さま。
―私が戻るまで、ここにいろ。
―待ってたら帰って来てくれる?
―そうだ。この部屋から、一歩も出るな。
―え、一歩も? …判った、待ってるから絶対帰って来てね?
―ああ。

無邪気に手を振り、何の疑いもなく笑っていた。
それと今の笑顔は同じように見えて、もう同じ笑顔では無い。
両の手で、唇で、全身でお前を探す。
やがて辿りついた温もりは、淡い光を帯びて頬をなぞる。
その一滴も失わぬように口に含めば、ぴり、と微かな痺れが舌を刺した。
否応なく呼び起こされるのは、褪せた色彩の欠片たち。


一度目。
開けた瞬間、その眩しさに痛みすら覚えた。
そこに広がるのは連れてきた時の薄ぼんやりとした部屋ではなく、一面の花園。
楽しげに花を摘む姿に、ほんの僅かな気休めを得る。
私に気付いて駆け寄るお前にも何ら変わりはなく。

―殺生丸さま! ここすごいね! 花畑を思い浮かべたらこうなったの!
  さっきは海だったし、その前は…
―退屈は…?
―全然! あ、ねえ殺生丸さま、あたしがここに来てからどれくらい経つの?
  お腹も減らないし、もしかして一日も過ぎてないの?
―何故そんなことを訊く…?
―えっと、何となく気になって…っん…・・・殺生丸さ…待っ…

隠し続けるつもりはない、ただ触れずにはいられなかった。
何処にも、行かぬように。

二度目。
お前は問うた。いつまでここにいるのか、と。
だから答えた。ずっとだ、と。
どこまでも透明な蒼の下、不安定に揺れる瞳以上にお前が戸惑っているのが判る。
思わず漏らした、自分の耳を疑う問いかけはまともな言葉を成さず。
一切を知ったお前は予想に反してとても        閑かだった。

―ずっと、このままなんだよね?
―…ああ。
―殺生丸さまと、ずっとこうしていられるの?
―嫌か?
―そんな事あるわけない…知ってるくせに。
―…そうだな。

この時も、お前は微笑っていた。
それは嫋(たお)やかで、何かが欠けていて……いつの間にか周りは元の鈍色へと戻り。
冷ややかな水と、どろりとした炎が渦を為し爪の先までも支配する。
気付けば、衝動に総てを委ねていた。
微かに震える身体にも縋るような声にも、何故か零れる滴にも眼を背けたまま     

澱のような余韻が漂う中、瞼を閉ざしたお前はぴくりとも動かず。
触れた場所から伝わる体温と、か細い鼓動だけが生きている証。
そこに手を添えると、振動が優しく染み込んでくる。
人も妖もなく、生けるものは皆等しくこの音を刻む。
それは成長であれ老いであれ、変化を表すものでもある。
なら、今腕の中にいるこの娘は?
これからも気が遠くなるほどの年月を数え、その先に待っているのは何一つ変わらない《今》。
脈打つ音は確かに生命(いのち)を示しているというのに。
噛みあわない現実を人としての躰と魂は拒絶し、心は受け入れる。
その矛盾は影を食むように少しずつ、お前を蝕んでいった。
徐々に光を失ってゆく眼で仮初めの空を眺め、絶やすことのない笑みはしかし温度を伴わず。
…だからなのか。確かめずにいられないのは。
そんな私を見透かすようにお前は繰り返す。
幸せだと。
だが、その奥に潜む翳りに気付かないほど、私は溺れることも出来なかったのだ。


もう、何度目かも判らなくなった頃。
豊かな彩りと光に満ちていた世界は色を失っていた。
座りこみ、力なく視線を宙へ彷徨わせる瞳は何も映していない。

―どうした。
―なんにも、ないよ。…ただ、よく判らなくなっちゃったの。
  空って、花ってどんな色だったか…ぼうっとして…・・・何でかな…
―…りん…
―ねえ、傍にいてくれる…?
―…ここに、いる。

掻き消えないよう、抱き締めることしか出来なかった。

歪みに引き裂かれないためにお前がとった防御本能は、忘却。
今あるこの状態を躰と魂が拒むのなら、その元となる総てを無くせばいい、と。
暗闇に押し潰されぬように、何も感じぬように意識さえ追いやった。
お前が、人としての何もかもを捨ててまで残したもの。 
私の名を呼び、忘れていないことは自惚れの理由になるのか…
もしそうでなくとも、離すつもりは毛頭無い。
後悔もしていない。
たとえお前の中から私が消え失せる時が来ようとも、その都度新たに刻み込んでやる。
私がお前を縛りつけたのと同じようにお前も私を囚えろ。
それはどんな蜜よりも、総てを麻痺させ狂わせるほど甘い闇。
どこまで行っても果ての無い、それこそ永遠(とこしえ)に続くかのような。
救いも求めていない。
寄る辺なき沼に沈み、指先から腐食し、崩れ去っても。
何も見えないように想いで塞ぎ、想いだけを残せばいい。
苦しみも痛みさえも、お前の総ては私のものだ。
お前を壊した代償にもならないほど甘やかな、それは至上の。


篭に入れられた蝶は空を求め、阻む檻で自らを傷つける。
そうしてやがては翅を無くし、空も忘れる。
蝶ではなくなったそれを胸に抱き続けた妖もまた、一筋も光の届かない闇の底へと。
それでも唯ひとつ、決して失われないものがあるのなら。
確かに在る真をうつす、灯(ともしび)にもなるだろう。




【終】




[H20.5.21]



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