『獣の庭』
残酷、冷酷と自分が評されていることを殺生丸は知っていた。
それは人間で言えばようやく十を過ぎた頃、絶世の美貌を謳われる母そのままの顔立ちにあどけなさを匂わせる少年には似つかわしくない形容であったが、妖としては褒め言葉だろう。
実際それには殆どの場合、陶酔の混じった畏怖が篭められていた。
だが殺生丸は、それらの評価を耳にするたび、澄んだ眸を曇らせ柳眉を歪め歯噛みした。
――何も判っていない。
よく笑いよく喋り、豪胆で闊達で、ひとたび戦となれば比類無き鬼神と化す。
一方で足下に咲く花を本気で愛おしみ、人間を見る目は睥睨ではなく好意的。
誰よりも強くありながら、誰よりも妖らしくない。
《情け深いお館様》が皆にとっての父だったが、殺生丸は違った思いを抱く。
誰よりも残酷だ、と。
強者と弱者。その間にあまりにも距離がありすぎると、強者はその存在にも気づかない。どれだけ喉を振り絞って叫んでも、そよ風ほどにも届かないまま無様な骸を晒すのみ。
それは決して残酷ではない。陽が昇って沈むことほど自然な理だ。
埃のように矮小な虫を知らず踏み潰したとて、罪悪どころか感触さえ覚える者などいないように。
そのくせ、自らがそこに立たされれば途端に無慈悲だ残虐だと喚きたてる。
羽虫がいくら騒ごうと何の感慨も湧くはずがない。
他の妖が人間に対するのと同じこと。
殺生丸にとって、両者にさしたる差異はなかった。
知らぬからだと言う者もいる。
何も知らぬから、知ればそのような真似はできぬと賢しらに言う者がいる。
愚論だった。だから殺生丸は、その幼い爪を一閃して永久に黙らせた。
ならば父は。殺生丸をはるかに凌駕する父なら尚更のはずだ。
……でも、父上は……。
知っている。充分すぎるほど理解している。だから慈しむことができる。
なのにそれは、父の弱さとならない。
むしろそれさえも、時には傍へ行くことも躊躇する凜烈さの彩りでしかない。
優しさは己の弱さに直結するもの。
物事に情を移すようになれば、刃は鈍る。
戦場で愛でた花を見つければ避けてしまい、死に繋がることもあるだろう。
だが父は、必要とあらば踏み躙る。
それがどんなに心を砕いた物であったとしても、どんなに近しい者であったとしても。
道の妨げとなった途端に興は失せ、眩い玉もただの路傍の石と化す。
足元に転がる石へ同情する者など、誰もいない。
だから父の強さは決して削がれることなく、ますます鋭利な光を放つ。
穏やかな春の陽だまりと、闇に君臨する紅い月。
相容れないはずのものを内包しながら、無邪気とも言える顔で呵々と笑う。
単純な強さとは違う何か、底知れない深淵を覗く怖ろしさにも似た何かを持っているのだ。
――自分には、無い。
腸が燻されるような悔しさと冬の湖面のような冷静さで以て、殺生丸はその事実を受けとめていた。
それでもと言うべきか、だからと言うべきか、殺生丸は日々鍛錬に明け暮れ、僅かでも時間のできた父を捕まえては仕合を強請った。そんな時、父は決まって困ったように笑い、痛々しいまでに真剣な眼差しを向ける幼い我が子の頭をくしゃりと撫でる。
きっと全部見抜かれていたのだろう。
「……あまり、急がないでくれ。殺生丸」
その手と声音のあたたかさに振り払うこともできず、ただ黙って俯いた。
「――っ何ぼけっとしてやがる!」
悠然と佇んでいるだけのように見える相手に、犬夜叉は一気に間合いを詰めて自分の身の丈ほどもある巨大な刃を振り下ろす。
唸りを上げて襲いかかるそれを、まるで風がそよぐようにふわりと躱した殺生丸があいた背中を叩き飛ばす。地を転がされながらも刀は放さず、体勢を立て直した犬夜叉は再び切っ先を向けた。
「誰に物を言っている」
だが、それはすぐに防御へ回った。
正面に捉えていたはずの姿が消える。
風を裂く音と共に、突如視界を覆った爪を辛うじて刀で防ぐ。
右足を強く踏み込み、低い姿勢から横に薙いだがそれも空を切った。
間合いを取り直して向かいあう。
夜の野辺に、束の間の静寂が戻った。
「……なんで抜かねえんだよ」
悔しげに吐く異母弟の眸が、かつての自分と重なった。
らしくなさに内心苦笑しつつ、愚か者、とだけ口にして地を蹴った。
爪と刃が弾きあう音。
追憶から、同じ音が蘇える。
風が吹く。
地にしがみつく草を引き千切るように、悲鳴をあげる木々をなぎ倒すように。
天は重い雲が蠢いて月も星も届かない。
だが、嵐ではなかった。
原野に立つふたつの影、その一方――まだ幼さの抜けきらない少年に、空と地は震え慄いていた。
剥き出しの殺気や闘気を纏い、砥ぎ上げた妖気を刃に乗せて宙を翔ぶ。相手の男は少年と同じ色の眸で静かに見据え、切っ先が触れる寸前に最小限の動きで左に避けた。
右の袈裟懸けに斬りかかってきた少年の隙、右肩を狙ったのだが即座に持ち手を変えて一文字に振り払ってくる。それを深く沈んで回避すると手首を掴み、同時に伸ばした逆の腕で細い首を締め上げた。
刀を封じられ、足は宙に浮き、首に指が食いこむその状態でも少年に宿る炎は苛烈さを増すばかりで、苦しいだろうに眉ひとつも動かさない。
それどころか残された片方の爪で腕を溶かそうとする始末。
その迷いの無さに男は笑った。
「まったく、可愛い息子よ」
爪が届く前に退き、左腕一本で投げ飛ばして愉快そうに鋭い牙を覗かせる。
少年はよろめきながら立ち上がった。
「――抜いては、下さらぬのですか」
「不服か?」
腰に差されたままの刀を見つめ、殺生丸は鍛錬用に与えられた刀を地面に突き刺した。がり、と刃が固い土と擦れて嫌な音を立てる。
「ならば、私にも必要ありません」
僅かに眸を眇め、吹き荒ぶ風より速く爪を閃かせた。右を避けられれば左、足を払われそうになればその前に跳んで首を。その間に向こうからも攻撃が繰り出され、何とかそれらを避けながら次を狙う。
呼吸もままならない。一瞬でも息をつけば、そこで終わりだ。
激しく爪の競りあう音、地面を抉る音、草木の腐臭が冷たく乾いた風に混じる。
ふいに、互いの動きが止まった。
爪に今までとは違う感触を覚え、間合いを取った殺生丸が見下ろすと、そこは微かに血がついていた。
前に向き直ると父が左の手の甲をじっと見ている。
横に走った一線、あざやかな赤であるはずのそれは掠めた毒で黒ずんでいる。
ちろりと舐め、ああ、と酩酊の声を漏らした。
「好い、な」
その金の眸は鈍く獰猛に光り、口元は片側にだけ笑みを形づくっている。
瞬間、すべてが静まり返った。
ぞくりと、背筋が総毛立つ。
これだ。この眼なのだ。
つい数刻前までの穏やかさとは対極にある、同じ男とは思えないほどの。
――戦慄。
そこからは更に激しさを増した。
攻める隙などなく、襲いくる爪を、腕を、しなる足を防ぐのが精一杯だった。
一撃が持つ殺傷力もさっきの比ではない。
《死》が、脳裏をよぎる。
なのに――愉しい。
血がふつふつと沸く高揚感に身震いし、唇は自然と弧を描いた。
すると、父もまた哂った。
やはり獣だ。
普段いくら人の型をとっていようと、その内にある性は獣以外の何でもない。
親と子だというのに、他のどんなことよりも愉しくて仕方ない。
今の父が本来の父なのだと、殺生丸は再認識する。
向かってくる者には死を。
邪魔になるなら引き裂くのみ。
それは血を分けた自分であっても同じだろう。
殺生丸にとってそれは、落胆ではなく信頼だった。
何ものも父を揺るがすことはできない。
いつだって堂々と立っている。
誰も届かぬその背中に追いつくとしたら、追い越すとしたら、それは自分だ。
成し遂げてみせるその日まで父が変わらず立っていることを、殺生丸は疑いもしなかったのだ。
「かはっ……」
幹に背中から強く打ちつけられ、犬夜叉はずるりと膝を折った。
衝撃で木の葉が舞い落ちる。
それが疾る妖気に裂けるのを悟り、寸でのところで身を屈めた。
年を経た大きな木が断末魔をあげて倒れていく。僅かに残された部分もまた、止めを刺すかのように砕かれた。
だが、狙ったのは当然それではない。
二撃目を宙へ逃れた犬夜叉が構えなおすと殺生丸も跳躍し、空中で衝突する。
皓々と輝くまるい月。その真円の中で、黒い影が交錯した。
どれくらい経った頃だろうか。
「もう終いか。仕掛けてきたわりには呆気ないな」
息を切らす弟に、兄は淡々と言い放つ。
さやかな葉擦れが夜風にのって野を渡る。
「――っまだ、これからに決まってんだろうが……!」
肩を上下させながら呼吸を整える。消耗はしていたが、それ以上に昂ぶっているのを犬夜叉は感じていた。抑えきれない疼きに喉の奥が低く鳴る。
既に日常の一部となっている、異母兄の村への訪い。
その帰りに、自分から声をかけた。
理由はよく判らない。
判らないが、今、自分は確かに愉しんでいる。そして求めている。
――負けたくない。
柄を握り直し、まっすぐに相手を見据えた。
――口の減らぬ……。
同じ色をした双眸と対峙しながら、殺生丸はふと今の状況がひどく奇異なものに思えた。
殺し合いでもない、ただの馴れ合いでしかないこんなことに、何故。
やにわに、鍔鳴りが聞こえた。
それを合図のように刃が向かってくる。
相変わらず、正面から攻めることしか知らぬ半妖だ。
思考を中断した殺生丸が、とん、とまるで重力を感じさせない動作で飛び、犬夜叉は握る手に更に力をこめた――が。
「どこを見ている」
声は背後からだった。振り向きざま、腕が鞭のように犬夜叉の頬を薙ぎ払う。
しかし手応えが軽い。
無防備に宙へ投げ出されたはずの犬夜叉も、体勢を立て直しながら着地して隙なく構えた。
自ら力の方向へ飛んで勢いを殺いだらしい。
「そう何度も食らうかよ!」
ぽたりと、殺生丸の左手から一滴が落ちた。
刀も同時に振るったようで、手首に流れる印が一筋増えていた。
浅手だが、一撃には変わりない。
そのあざやかな色に記憶が重なり、融解した。
答えを出すなど詮無きこと。
そもそも問う必要もないことなのだ。
己は妖。この身に流れるのは獣の血だろう。
――ならば。
傷を見ながら何の感慨もないような兄に、犬夜叉はたじろぎながらも反撃に転じようとした。だが視界から殺生丸が消えたと思った刹那、衝撃に見舞われ気づけば地に伏していた。
今度はどの方向からかも判らないままに。
「ちっくしょ……」
口元を拭い、ふらついた足で立ち上がる。
「まだやるのか」
「へっ、当たり前だろ……!」
息が上がった血の滲む顔で笑う。その眸に宿る光は折れていない。
また、像が重なった。
『ぐっ……は、はぁっ、は……』
『少し休め』
『大丈夫、です……!』
『……仕方ない奴だな』
凶猛さなど、かけらも残していないその顔が歯痒くてならなかった。
そう、あの日も同じように父の手は伸ばされた――。
「――……?!」
犬夜叉は、今自分に起こった事象を受け止められなかった。
兄の手。
殴られ、毒爪を浴びせられ、腹を貫かれたこともあったその手が。
今、自分に何をした?
確かめようにも硬直した喉から言葉は出ず、少し乱れた髪は置いてきぼりに、居心地の悪い感触と錯覚のような温度を残して手は離れた。
そのまま一足飛びで距離をとる。
「――何を呆けている」
爪を鳴らし、眸には不遜な光を湛えて。
「え……な……っ」
「来ないならこちらから行く」
いつになく愉しげに、口元にうっすらと笑みを刷いた。
月は未だ高く、怜悧に柔らかにあたりを照らしている。
それはいつか見た遠い日の、誰かのまなざしに似ていた。
【終】
2010年弥生、『Noble Noir』ににぎさまへサイト三周年のお祝いに押しつけたものです。
[H24.7.19]
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