空の青さを忘れた。
草花の匂いを忘れた。
踏みしめる土の感触を忘れた。
陽のあたたかさを忘れた。
・・・じゃあ、残っているものは何?
『幸福』
ふと、今自分は生きているのか死んでいるのかさえも判らなくなる。
躰の中は空っぽで、涸れ果てた泉のよう。
ぐるりと視界を廻らせてみても、ぼんやりした鉛色の濃淡がまばらに浮かぶだけ。
ここは、どこだっけ・・・
もう随分長い間、ここに居る気がする。
その前は・・・覚えていない。
眩しい光でいっぱいだったような、そんな気がするけれど、
総て水気の無い固い地面の奥深くに埋もれてしまった。
僅かなそよ風を感じてその先に眼を遣ると、一瞬か細く仄白い光が見えた。
ふらりと誘われ近付くと、そこにあるのは障子。
どこかは判らないけど、自分は部屋の中にいるのだと知った。
無意識に手を伸ばし、障子を開けようとして・・・・・・
―バチッ
何かに弾かれ、指先から脳天へ痛みが走る。
短い悲鳴を上げたけど、裡を覆い尽くす靄に呑み込まれてすぐに判らなくなった。
立っている感覚も定かではなく、このまま空間に溶けてゆきそう・・・
「りん。」
唐突に、届いた声。
りんって・・・・・・ダレ?この声は・・・・・・
「りん。」
あたしのこと、なの?あたしは・・・りん?あなたは・・・
「りん。」
乾き切った土に、一滴、また一滴と水が落ちてゆく。
閉ざされた地は解されてじわりじわりと潤いを見せ始める。
「 りん。」
ゆっくり見上げると、ふたつの金色がこちらを見下ろしていた。
霞の中にいるように何もかも不明瞭なのに、そのひとだけは鮮明で。
口は勝手に名を紡ぐ。
「・・・せっしょうまるさま・・・」
ほんの少し、そのひとは眼を細めて身を屈めた。
あたしの右手を取り、金を今度は曇らせる。
「此処から、出ようとしたのか・・・」
出る?ここから?判らない・・・
しばらく見つめられていた手に、生温かく濡れたものが触れた。
指も一本一本、同じ感触が包んでいく。
甘い痺れが鈍った神経を駆け巡る。
滴は流れとなって穴に注ぎ込み、内からも湧き出した水と混ざり合って瞬く間に満たされる。
ああ、そうだ。あたしは、このひとを待っていたんだ・・・
「 血を、流すな。」
言われて、初めて気づいた。
滲み、流れる朱を残らず舐め取ってくれる大好きなひと。
鉄のにおいが細く漂う薄闇で、水音だけがいやに響く。
あなたの口の中に溶けていく自分の血 《陶酔》とは、こういう感覚を云うのだろうか。
「・・・苦しいか?」
どうして?こんなに気持ちいいのに。
「・・・哀しいか?」
ううん、嬉しい。一緒にいられるのだから。
「・・・戻りたいか?」
何処に?なんにも、覚えていないのに。
でも、たとえ何処であっても、あなたが居ないのなら戻りたくなんかない。
―だから、あたしは幸せ。
答えの代わりに、笑って首を横に振る。
それでも、あなたは未だそんな顔をしてる。ほんとうなのに・・・
頬を包まれ、吐息がかかるくらいに近付く唇。
眼を閉じると、口の中で血の味が広がった。
自分のものなのに、まるであなたが流しているように感じたのは何故だろう?
錆びた味を追いやるように、紛らすように唾液を絡めて求め合う。
想いを少しでも伝えたくて、背に回した腕に力を篭める。
ずっと、こうしていたい・・・
長い長い口づけの後、名残惜しげに唇は離れる。
溢れ出る水の流れは止まらず、泉を満たしてもまだ足りない。
行き場を失ったそれは外へ零れ落ち、あたたかに頬を濡らした。
その一滴までも、あなたは吸ってくれる。なんて優しいのだろう。
「 何処にも、行くな。」
とても、驚いた。
何を言ってるの?あたしの気持ちは伝わってはいなかったの?
この泪は嬉しいからなのに。
あなたの元から離れてなんて、一体何処へ行けばいいの?
もう、あなたしか、いないのに。
金色の瞳が痛々しくて切なくて、広い胸に身体を擦りつけた。
襟を、ぎゅっと握りしめる。
「なんで、そんなこと言うの?」
「先刻、出ようとしたのだろう・・・?」
「ちがう・・・」
「では、何故?」
「判らない・・・ひとりの時はなにも判らなくなっちゃうの。
殺生丸さまに呼ばれるまで、自分の名前も忘れてた・・・あたし、どうしたんだろ・・・」
「―他の事は?」
「覚えて、ない・・・殺生丸さまのことしか、判らない・・・」
徐々に震えを帯びてくる声まで包むように、抱き込まれる。
視線を交わすと、再び唇が降りてきた。
何も、判らなくていい。このひとが居てくれるのなら、他には何も。
今のあたしにとって、感じているこの肌のぬくもりが総て。
空洞だった躰があなたでいっぱいに満たされる、至福の瞬間。
・・・でも、少し怖いのもほんとう。
同じことを、ずっと繰り返しているような気がして。
《今》が終わったら、またひとりの時がやってくる。
そうしたら、また何もかも忘れてしまうのだろう・・・《次》が来るまで。
それでも構わない。
記憶も自分自身も、息の仕方さえ忘れてもいい。
あなたを想う気持ちだけ残っていれば、それが幸せ。
混じりあう熱、重なる心音 そう、溶けるのは宙にじゃなく、あなた。
このまま、あなたの中に溶けてゆきたい。
さっきみたいに、血の一滴まで総て、あなたの中に。
ゆらりゆうらり、狂い、時も忘れた蝶のように篭のなかを彷徨う心。
唯ひとりを宿しながら。
刹那の悦びと引き換えに、忘却の彼方へと沈みゆく。
それでも幸せと泪を流し、少女は幾度目とも知れぬ眠りに堕ちた。
【終】
[H20・3・30]
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