『夜香花』




香りが咲く
誰に愛でられることも無く
その純白を塗り潰す夜に咲く
どれよりも強く香り
どれよりも可憐にその身を開く
ただ ひとりの為に


今宵の空は朧月。
望を過ぎ、朔へとむかう寝待月が薄絹をまとうその下で、さわさわさわ、風が夜を撫でてゆく。
野原をすべり、隙間を縫って運ぶ先には少女がひとり。
無造作に流れる黒髪、やわらかな頬、伏せた瞼を縁どる睫毛。
ほそく差し込む月光は、その眠りを頼りなく照らしている。
在るもの全てがふわふわと淡い、やさしい闇に少女は身を任せていた。
――かたり、小さな物音が静寂(しじま)に溶けた。
姿を見せたのは妖。
その玲瓏たる姿がほんの少し和らいでみえるのも、こんな夜のせいなのだろうか。
滲む眼差しも、腰を下ろすまでの所作も、薄墨のような衣の陰影も。
「……ぅ、ん…………」
音は立てていないに等しい、だが少女は実に的確に目を覚ました。
いつものように。
傍らにいるひとを認め、ほんわり笑んで名を唇にのせる。
身体を起こそうとすると、大きな手が頭に置かれてそっと制される。
それも、いつものこと。
「まだ寝ていろ」
「……はい、殺生丸さま」
浮かした頭をもどし、ふうと力を抜く。
しかし目が冴えてしまったのか、それとも眠るのが惜しいのか、瞼は下ろされない。
「――寝ろと言った」
「うん、でも、殺生丸さまのこと見ていたいから」
やはり後者のようだ。
この少女はいつでもひたすらに真っ直ぐで、無防備で、だからこの妖のなかへもすんなり入り込む。
涸れた土へ落ちる一滴のように染みわたり、打ち寄せる波濤のように奥底を揺さぶるのだ。
短く、息を吐く音が聞こえた。
それ以上何もないことが何よりの答え。あたたかい沈黙は、揺り篭となって少女を包む。

「……花の、匂いがするね」
薄闇に浮かぶ横顔を眺めながら、呟いた。
「なんの花かなぁ……」
返る言葉はない、しかしそれもまた、いつものことで。
「……ねえ……殺生丸さま」
ゆるく微笑み、とろとろ夢見がちに声を紡ぐ。
「あたし、次は花がいいな……」
唐突に現れた不可解な台詞に、かたちの良い眉がしかめられる。
何のことかと見下ろせば、黒い瞳はこちらを向いてはいるものの、焦点が合っているのかいないのか。
声の調子といい、意識を半分あちら側に引き摺られていることは間違いない。
――だから、言ったのだ。
疲労に配慮してやったというのに、そういう時に限って妙な意地を張る。
強い意志を湛えた勝気な瞳が脳裏に浮かび、殺生丸は口の端を緩めた。
が、何を言いたいのか判らないままというのも気に入らない。
「……どういう意味だ」
「ん……法師さまにね、聞いたことがあるの」
第三者の名、それも愚弟と連んでいるあの食わせ者。
また何かよからぬ戯言を吹き込んだのか。
凪いでいた双眸は険を含んだが、対する少女の口調は朗らかなまま。
「あのね、命って、いろんな生き物の間をまわってるんだって。今あたしは人間だけど……その前は魚だったかも知れないし、次は鳥に生まれるかも知れないんだよ。……だから、次は花がいいなぁって思ったの」
「くだらんな」
「うん」
無下に一蹴されたというのに、反論どころか頷いた少女はやはり笑っている。
だって、知ってるから。
「花など、弱いだけだ」
――ほら、やさしい。
「うん、でも……匂いなら、届くと思って。殺生丸さまがどこにいても、風に乗って飛んでいくから。どの花にも負けない強い香りだったら……きっと、判ってくれるでしょ?」
「……必要ない」
「そう? ……あ、やっぱり花はやだな……動けないから、いっしょに……いけない……」
ふつりと言葉が途切れ、重たそうに持ち上げていた瞼がとうとう下ろされ動かなくなる。
後には気持ちよさそうな寝息だけ。
邪気の無いその顔と同様に、先程言っていたことにも他意は無いのだろう。
そもそも正気ですらない。
朝になって目を覚ませば、太陽に追われる夜と共に跡形なく記憶から消え失せている。
そしてまた、同じように笑うのだ。
――まったく。
息を吐き、なだらかな曲線を描く黒曜の海に指をいれて軽く梳く。
たったそれだけでも、漂う匂いは濃やかさを増して頭の芯を疼かせる。
呼応するように燻りだしたものを押し込み、呟いた。
「……どれほど私を惑わせるつもりだ? りん……」
強い匂いなど必要ない。今より、強いものなど。
何事にも動かされることのなかった心を、いつもこの少女は容易く掻き乱す。
自嘲めいた台詞の下、その寝顔が微笑んだような気がした。
きっとそれも、こんな夜のせいなのだろう。



【終】



2009年弥生、『Noble Noir』ににぎさまへサイト二周年のお祝いに押しつけたものです。
うちの一周年にいただいたのが「りんちゃんの朝」だったから「兄の夜」にしようと思ったものの撃沈。

[H24.7.19]



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