『うたかた』





蝶が舞う。
ひらりひらり、花を追い。
……誘われたのは、どちらなのか。

「わ…すごーい……! きれいだね、殺生丸さま!」
緩やかにそよぐ夜風が心地良い。
ふわふわ、ゆらゆら、薄紅色の花弁が遊ぶ。
満ちた月は唯々やさしく、明るい闇はやわらかな音を奏でていた。
だがその絶景も妖の興を引くことはなく、眇められた眸に映るものはいつもと変わらない。
気侭に踊るそれとじゃれ合う蝶――その、一点だけに。
意図して誂えたわけではないが、はしゃぐりんの着物の上で舞っている蝶はあまりにも鮮やかで、そのくせ頼りなく、花風の中で見えては隠れを繰り返す。
もどかしく霞むその光景に、このまま桜に連れていかれそうな、りん自身まで蝶のように飛び去ってしまいそうな錯覚に襲われた。
足にほんの少しだけ力を込める。
この程度の距離など、妖にはあって無いようなものだった。

「殺生丸さま……?」
今の今まで桜の向こうにあった姿が、突然目の前に現われてりんの手首を掴んだ。
それでも少女は大して驚きもせず、事もなげに笑顔を返す。
「なに?」と見上げる顔の屈託の無さにまで殺生丸は焦燥を覚え、思わず手を離した。
強く締めすぎて、知らぬ間に毒まで注いでしまわないように。
(――……どうかしている)
そんなこと、りんには思いもよらぬことだろう。
知らない筈だ。なのに、殺生丸を映す目は強くて、無防備で、まっすぐだ。
まるで、全て見透かしているのだとでも言いたげな。
それが余計に殺生丸を追い立てる。
些か乱暴に腰を下ろし、ともすれば再び伸ばしてしまいそうになる手で口を覆い頬杖をついた。
りんも、自分の手を掴んだくせに黙りこんでいる妖にさほど疑問を持つこともなく、隣に座る。
「邪見さまや阿吽も来たらよかったのにね。……楓さまたちも、誘えばよかったなぁ……」
狂ったように降り頻る桜を眺めながら、誰にともなく呟いた。
返答を期待していたわけではなく、ただ思ったことを口にしただけ。
だがそれも、時と相手を間違えれば自分に返ってくる。
……判っては、いないのだろうが。
成長したように見えてもやはりまだ子供なのだ。
その子供には尚早とも思える懐のものに、殺生丸は手を伸ばした。

「え、これ……」
何の前触れもなく差し出されたものに、りんの視界から桜が消えた。
――櫛と簪。
くれるの、と目で問う前に櫛を手渡される。
しっとりと、掌に吸いつく感触は少しだけつめたい。
月明かりで控えめに放つ光沢は深く澄んでいて、りんの目にも上質と知れた。
花を模った簪も同様だ。
殺生丸は、何かしらの手土産を毎回と言っていいほど持って会いに来てくれる。
今着ているものだってそうだ。
でも、こういう――――《おとな》の女の人が使うようなものを貰ったことは一度もない。
殺生丸にとって自分はまだまだ子供で、だから早く大人になりたくて、きれいな簪や紅の類に憧れたりもした。
嬉しい。息が詰まって、礼を言うことも儘ならないほどに。
……なのに、素直に喜べなかった。

こんな、きれいなものをくれたのに。
きっと、高価なものなのに。
ううん、だからこそ。

「――いらぬなら、そう言え」
いつものように笑顔を見せない理由に、殺生丸は早々と結論を出した。
慌てたのはりんだ。
でも、うまく言葉にできない。
いろんな感情が、ばらばらに浮かんでまとまらない。
気持ちばかりが逸ったが、やっとのことで口を開いた。
「ち、ちがうの。あの、あのね……、あたしが……貰っても…いいのかな、って……」
だんだん俯きながら、最後は風の音に紛れそうなぐらい小さな声を漏らす。
りんにとっては精一杯、だが殺生丸には全く足りない。
それでも、続きを促す声はさっきと比べると幾分穏やかにりんの耳に響いた。
「……だって、もったいないよ。あたしみたいな子供じゃ似合わないし……それに……」
それに。
ずっと、気になっていたこと。
また瞳を翳らせて口を噤んでしまったりんに、殺生丸は嘆息した。
「……何だ」
「………それに、ね……いつも、貰ってばかりだから。
貰ってばっかりで、殺生丸さまに何にも返せてないから。……ごめんなさい」
叱られた、それこそ子供のように身を小さくして謝るのを見て、殺生丸は己が安堵していることに気付いた。
伏せたりんの頭の上で、無造作に結んだ一房が風に揺れる。
誘われるままに手を伸ばし、根元に一輪の花を挿した。
それに驚いたりんが顔を上げると、ふたつの鈴が可憐な音を鳴らした。
「殺生丸さま、……あの、」
「気に入らぬならそう言えば良い。返礼も必要ない。だが――」
似合うか否かは私が決める、そう言われてりんの心臓は跳ね上がった。
悟られないよう胸のあたりをぎゅっと握ったが、声はどうしても上擦ってしまう。
「え、っと……えと、でも……」
「まだ何かあるのか」
「……だって、本当に貰いっ放しなんだもん」
妙なことにばかり拘るものだと、半ば呆れた。
拗ねているようにも、落ち込んでいるようにも見えるりんの横顔に、ぱらりと黒髪がかかる。
ごく自然に手は動き、掌に取った髪は改めて見れば随分長くなっていた。
指を絡ませると素直に纏いつく。
その元を辿れば、りんがもの問いたげにこちらを見ていた。
身体の線に沿って流れる漆黒も己を映している漆黒も、月光に濡れていた。
「――そんなに、礼がしたいのか?」
「うん……」
「なら、させてやる」
思ってもみなかった言葉に、りんは喜んで飛びついた。
「何? 何すればいいの?」
「今ではない。お前がそれを選ぶ時まで、憶えていろ」
「……どういう、意味?」
「今はいい、と言った筈だ」
「……はぁい……」
まだ完全には納得していない風のりんに、珍しく口元が笑んだ。
春の宵は、千金に値するという。
一年の間で限られた、その中でも更に短い泡沫のとき。
それ故に美しく、どうしようもなく惹かれてしまうのだろう。
ならば、これも。
全部その所為にしてしまえばいい。
理由の見つからない焦りも、それに甘さが混ざって撹拌する疼痛も、全部。
朧に滲む月に、乱れ散る桜に、惑わされたことにすればいい。

【終】


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