『玉章』





※永訣



どうして、そんな気になったのかは判らない。
ゆるゆるとした穏やかな日和のせいかも知れないし、どこからか運ばれてきた匂いのせいかも知れない。
だがそれらは、取り立てて珍しいことでも何でもない。
苦しみを覚えるほどありふれた日常でしかないのだ。
つまりは理由など無いに等しく、とにかく私は、今こうして筆を取っている。

真白い穂先が漆黒を吸い上げ、深い艶を滴らせる。
さみしい空白を、流麗な文字が埋めていく。
時折紙面を離れて宙を迷いながら、じっと、考え込みながら。
胸が詰まるぐらいに、ただひたすらに綴られる。
御簾を透かして差しこむ陽光が、その傍らに淡いひだまりを作っていた。
きらきらと光る実体の無いぬくもり。
手を動かす以外は身動ぎひとつしない背中。
ふたつは、黙って寄り添っている。
聞こえるのは筆が紙を滑るしずかな音だけ。
温んだ水の、止まったような川の流れよりもゆっくりと、ゆっくりと、穏やかに漂う時間。
まるで、何もかもが、嘘のような。

――あれからいくつの季節がこの身を通り過ぎたのか。
気に留める理由を失ってから、数えたことは一度も無い。
どうでもいいことだ。
幾千の夜を彷徨い続けたとして、いつ果てるとも知れないのだから。
現に、何も変わってはいない。
ずっと、誰ひとり足を踏み入れていなかったここが寸分違わぬかたちを保っているように。
欄干やこの文机にも埃ひとつなく、すべてが同じ眩さで陽を反射している。
錯覚してしまいそうだ。

幼さの残る軽い足音。

それが、段々こちらに近づいてくる。

届く匂いに、肩の力が緩む。

頃合かと振り向いた先には。

――殺生丸さまっ!

しかし、そんなことがあろう筈も無い。
在るのは無言。いたずらに御簾を揺らすのは、気紛れな春の風だけだ。
庭や廊下、柱の陰、至るところに染みつき、息づいていた匂いはもう跡形も無くなってしまった。
零れゆく砂のように、さらさらと。
もし術を知っていたなら、指の間から抜け落ちるそれを留めていられただろう。
どんなに握りしめても失われていく質量に、爪を皮膚に食い込ませることもないだろう。
だから私は、音も無く色褪せた中でただ立ち尽くしている。

なのに、焼きついた記憶だけが今も鮮やかすぎる色を放つのだ。
知らぬ間に糸を辿り、最初に浮かぶのはいつも決まって、笑った顔。
そう、あの時でさえ。
昔から何も――少しだけ下がる眦も、そこから覗く深黒の真っ直ぐさも、綻ぶ口元も変わらない同じままの。
そのあどけなさは何にも勝る刃のように深く、ふかく、刺し貫いた。
痛みに眸を逸らすこともできないほどに。

昔、と言っても、実際はそれほど長く共にいたわけではない。
歩んできた、そしてこれからも歩み続けるだろう、始まりも終わりも曖昧な星霜の中での、ほんの一歩程度でしかない。
砂に刻んだ足跡は、すぐに埋もれる。
それでも、振り向いてしまうときがある。
聞こえないはずの足音が、聞こえた気がして。
そしてまた、思い知るのだ。


ことり、硯に筆が置かれた。
そっと息をつく。
初めてだからだろうか、軽い疲れのような、しかしそれにしては温かいものがじんわりと腹にしみる。
そういえばと、追憶からまたひとつ笑顔が浮かんだ。

突然差し出されたものに、私はおそらく眉を寄せただろう。
りんは満面の笑みで、腕をいっぱいに伸ばして私が受け取るのを待っている。
仕方なしにそれを抓むと、かさりと乾いた音がした。
少し色のくすんだ、短冊に折られた小さな紙。
開くとまた中に折り畳まれた紙があった。
りんなりに体裁を整えていることが、妙におかしかった。

――あっだめ! まだ開けないで殺生丸さま。

理由を問えば、戻ってから読んでほしいのだと言った。
自分の前で読まれるのは恥ずかしいからと。
茜色が、空も川も草もすべて染め上げていた中、りんも同じ色ではにかんでいた。
何を書いたのかと思えば、どうということはない、いつも際限なく続くお喋りの延長だった。
文まで書かねばならぬほど、訪れる回数が少ないのか。
ならばそう言えばいい。
だが翌日、再び足を運んだ私を迎えたのは予想に反して目をまるくした驚きの表情。
どうしたの、と小首を傾げる様に少々憮然とした。
返答もそのようになってしまったのだろう、りんは慌てて言葉を継いだ。

――ちがうの、そうじゃなくて……

口ごもり、困ったように眉を下げて笑いながら。

――字をね、習ってるの。そうしたら、殺生丸さまに何か書きたくなって。

――だめ?

僅かに不安を滲ませて見上げてくる大きな瞳。
低く、息を吐いた。
好きにすればいいのだ、そんなもの。
声に出したわけではないが、りんは光が弾けたように笑った。
何がそんなに嬉しいのか判らなかった。
その後もしばらく、帰りがけに紙きれを渡される日が続いた。
ぎこちなさが徐々に取れ、柔らかみを帯びていく文字。
その筆跡(て)の主と同じように。
速すぎる時に、眸が眩んだ。

想像したこともなかった、りんが文を書く姿を想う。
背を張って、むずかしい顔をしただろうか。
時には宙へ視線を巡らせただろうか。
何を、思い描いていたのか。

返事を書いたことは、一度もない。
りんも望んだことはなかった。
(今更……)
まだ乾き切らない文字の羅列を見下ろしてうすく哂う。
これは返事ではない。
そもそも、文の内容すらろくに憶えていないのだ。
ただ、りんが笑うから手を伸ばしていただけのこと。
そのうちに、やがて束となった紙。
捨ててはいない、だがいつの間にかどこかへ消え失せていた。

りんは、花冠を作っては私に差し出す。

私は、それを横目で一瞥する。

りんは、いつも陽向のように笑う。

私は、笑わない。

りんは、何でも隠さずに話す。

私は、黙っている。

それはずっと変わらなかった。
変わらないまま、傍にいた。
掠れた息遣いで途切れがちに名を呼び、細い腕を懸命に伸ばしてきたあの時も。
結局何も言えず、何も伝えられずに終わった。
どうしてりんが笑ったのかは、判らない。

吹き込んできた風が、脳裡に描いた顔を攫っていった。
はためく御簾の向こう側にはやさしい蒼がどこまでも広がっている。
ゆっくりと、妖は立ち上がった。

庭に下り、小さな紫苑の花が咲く傍に片膝をつく。
持っているのは文と、妖にはとても必要とは思えない石ころがふたつ。
使われていくうちに少しずつ削れたそれは、何故か妙に手に馴染む。
ごく自然に、手は動いた。
使ったことなど一度も無い。いつも、見ていただけだ。
それでも知らぬ間に覚えてしまったのだろう。容易く、火はついた。
何故わざわざ人間などの道具を用いたのか。
似たようなことを、訊いたこともあった。

――だって、自分で出来ることは自分でやりたいから。

そう、言っていたように思う。

じわじわと、音も立てずに火が迫る。
白い紙が侵蝕されて黒い欠片へ変わっていく。
赤い炎の中で、言葉がひとつ、またひとつ捩れては、煙となって空へ伸びる。
鈍色に霞む、ほそい筋のゆく先を見上げた。
届くはずも無いというのに。
立ちのぼるそれはすぐに掻き消え、淡い縹色に溶けてゆく。
後には煤混じりの残骸のみ。
そのひとかけらは手に取った途端、ほろほろと崩れ去って指先に黒い痕を残した。
これでいい。
あれは、何かを欲しがるということをしなかった。
私も、何も贈ったことはなかった。
ただ日々だけを積み重ねた。
いずれ朽ち果てる形あるものなど必要ない。
この文にも、何ら意味は無い。
伝えたいことがあったような気もするが、この無色の感情につける名など知らぬ。
かろうじて思い当たるのは、幾度となく聞いたひとつの言葉。
だが、その型に嵌められるほど真っ直ぐなものでもないのだから。

あっという間に熱を失ったそれに背を向けて歩きだす。
門の前では変わらぬ姿が二つ、じっと待っていた。
「……もう、よろしいので……?」
「行くぞ」
立ち止まらず横を通り過ぎた主に、老僕は後ろを振り返りながらその背中を追う。
松葉色の手には杖と手綱。
それに引かれて双頭の竜も歩を進める。
重なる足音が増えることは、もう無いだろう。
強い風が一陣、唸りを上げて吹き渡った。
春疾風だ。
息吹きはじめた木々や草花に容赦なく打ちつけて、ちぎれた破片を蒼穹へ巻き上げる。
物言わぬ悲鳴が谺する中で、妖は変わらない一定の歩みを刻み続けている。
こんな風では止められるはずもなかった。
それができる唯一の存在も、もういない。

はらはらと、あかいかけらが陽に透けながら舞い降りる。
すべらかに光が波打つ白銀の長い髪。
眩しすぎるほどに、煌いて。
ひとひらは、靡くそれを追いかけた。
もう少し。
刹那、あかい花びらは先を僅かに掠めて地に落ちた。
零れる光をその身に抱いて。

【終】


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