『袖ふれて』





「……ここも違うか」
甲高い女の声が虚空に響く。
もう何度この耳障りのする音を聞いたか、憶える気もないが数えられるものでもなかった。
唯々求め続け、二百年ほどは経っただろうか。それでもまだこの手に入らない。
鬱陶しげに後ろへ放った杖は弧を描き、小さな松葉色の手が慌ててそれを掴んだ。

(苛立っておられるのぅ……)
口には出さない主だが、その不機嫌は滲み出る妖気が充分に物語っている。
毎回こうではないものの、正直……勘弁して欲しいと思う。
やわらかな緑が遊ぶ森の中、零れる日差しを受けながら悠然と歩く後姿は腰よりも長い白銀の髪も相俟って眩しすぎるほど。
揺れる髪の一筋や妖毛の一本まで全てが、一分の隙もなく完璧に創り出されたものなのだ。
殊に敵を屠るときの美しさは格別。
虫を払うかのような造作で切り裂き、肉片を飛び散らせ、鋭い爪から鮮血が滴り落ちる。
つい先刻まで生きていたそれを一瞥もせずに歩みを進める。
――否。爪を振るうその瞬間でさえ、足を止めてはいなかった。
どこにも乱れた様子はなく、僅かについた緋色がいっそ鮮やかに引き立てる。
透き通った金の眸はどこまでも冷徹で、何を映しているのか窺い知れない。
鋭利な空気を纏っているのはいつものことだが、そういうときの主は後ろを歩くだけでも命懸け。
ぞくりと、背筋を這い上がるこの感覚は何と呼ぶものなのか。
ただの恐れではない。
奥底まで貫く畏怖と戦慄、それに憧憬と陶酔が綯い交ぜになる。
命を吸い取られても気付かないであろう恐怖にも似た恍惚は、まさに甘美な毒。
こんな長閑な風景ほど、主に似合わないものはないのだ。
誰も及ばぬその存在に仕えているという優越は、邪見にとって何よりの自負だった。
しかし、尋常ではなく気を遣うのもまた事実。
その容姿からは想像もつかない激情を持っていることも、それを抑えるには少しばかり気が短いことも、今では骨の髄の髄までよーく知っているのだから。
自分などまるで眼中に入っていないような――実際、入っていないのであろう背中を見ていると、自分の寿命は
どれくらい縮まったのだろう……と真剣に思ってしまう。

つらつらと、そんなことを考えていると不意に視線が突き刺さり、邪見は硬直した。
ただでさえ丸く、ぎょろりとした眼は今にも落としてしまいそうなほど剥かれ、
どこからか湧いた嫌な汗が体中を伝う。両手にそれぞれ持つ、人頭杖と阿吽の手綱を縋るように握りしめた。
……一体、自分は何をしてしまったのか。
笑ってごまかそうかという無謀な試みは、慣れた衝撃と痛みであっさりと崩れる。
今度は戻るまでどれくらいかかるのだろうと他人事のように思いながら、邪見は彼方へと飛ばされていった。


遠くなる下僕の叫びを無視し、殺生丸は先へ進む。
阿吽もちらりと空を見遣っただけで、特に気にする風もなく後に続いた。
彼らにとって何のことはない日常であるが故。
だがその日は、些細な非日常が紛れ込んできた。
それは細い糸が視界の隅を掠めたような、本当に小さな小さなこと。
殺生丸はそれを捨て置くことだって当然できた、でも――そうしなかった。
弱々しく落ちゆく糸を拾ったのは気紛れか、否か。


突然足を止めた主に、阿吽は軽く首を傾げた。
近くに怪しい気配はないし、まさか蹴り飛ばした邪見を案じるなんてこともないだろう。
二つの頭が互いに見合わしているのを余所に、殺生丸は進んでいた方向とは違う方へと足を踏み出した。
迷いは無く、その先にあるものへ向かってただひたすらに。
理由は判らないがついて来るなとも言われていない、取りあえず後を追った。
近付いていく内に、阿吽の耳と鼻にもそれは届く。と同時に、信じられない。
それはこの明るい森以上に主とは似ても似つかない、対極に位置するもの。
戸惑いの目を向けても説明を貰える筈もなく、自分の五感が狂っていることを期待したが、そんな筈もまた無かったのだ。
やがて立ち止まった主の向こうに、それは確かに存在していた。


引き寄せられた。
そんな自覚も何もなく足を動かした先に、見つけたそれ。
人の子――それも、まだ赤子の域を出てさえいない女童。
辺りを憚ることなく喉が千切れんばかりに泣き、左肩は裂けた着物が鮮やかな朱に染まっていた。
洗いざらした木綿の生成り地に、申し訳程度に抜かれた桃色の小花模様がより紅く侵食されていく。
大方、後ろの斜面を転がり落ちたのだろう、身体中が土と擦り傷に塗れていた。
それは妖にとって知らず踏み潰してもおかしくない脆弱な存在でありながら、
よく通る大きな、自分を全て振り絞った幼子特有の泣き声は有り余る命を叫んでいた。
それは最大級の甘えであり、これ以上に弱さを露呈するものも無い。

……そんなものに、何故。
いつもの如く使えない僕がいつもの如く貼りつけた愛想笑い、それがいつもの如く癇に障った――
たったそれだけのことで、ここまで足を向けた理由にはならない。
草の擦れ合う音に交じった微かな泣き声と共に、漂ってきたのは幼子と、血の匂い。
徒にその柔らかい肉を引き裂き、煩い声を止めてやろうとでも思ったのか。
だが眼差しが絡まり、濡れてより深くなった漆黒の中にいる己は確かに――捕らわれていた。

そう、いつの間にか幼子は泣き止み、じっと殺生丸を見ていたのだ。
泣き腫らした目を見開き、指一本動かさないその姿は恐怖のあまり泣くこともできないのだろうと、
何も知らぬ子供でも本能で感じ取ったのだろうと、殺生丸に思わせるには充分で。
でも、そうでは無かった。
よろりと立ち上がり、引き寄せられるように近付いてくる。
その面(おもて)は怯えも媚びも何も無く澄んでいて、それ故に底知れない。
大きな黒い瞳は、そこにいる《妖怪》ではない何を見つめているのか。
ざわざわと揺るがし、全てを見透かすような眼差しは決して心地良いものではなかった。
徐に右手を上げた殺生丸は、そよぐ風のように空(くう)を薙いだ。
常人には見えない妖気の圧が疾る。
それは真っ直ぐに眼前にいるものへと向かい、頬の横を掠めた。跳ねる毛先が、何本かぱらりと落ちた。
無論外したわけではない。狙った場所を、妖気は正確に通り過ぎた。
手っ取り早く切り裂いてしまわなかった理由に、おそらくは殺生丸自身も気付かぬままに。
そんな殺生丸の裡を知っている訳はないのに、更に掻き乱すように一歩、また一歩と殺生丸との距離を縮めていく。
立って歩くことを覚えたばかりの、たどたどしい足取りで、真っ直ぐに。
その間も、ふたつの異なる瞳は互いを映したままだった。
奪われたように視線を逸らせなかったのは、果してどちらだったのだろう。

……何故。
そんな目で私を見る?
見ることができる?
そんなものは――…知らぬ。

気付けば、縫いとめられたようにその場から動けなかった殺生丸のすぐ前まで来ていた。
呆けたように見上げていた顔が、ゆっくりと表情を動かした。
泣くか、喚くか――どちらにしろ、引き裂けばそれで済む。
二度目の威嚇は無い。
それで、この不快な波立つ感覚も消え去るだろう。
己の身さえ己で護れぬどころか、危険をそれと知らず近付く愚か者など生きようが死のうが変わりはないのだから。
さざめく波を振り払い、右手の爪が鈍い光を放つ。
だが、殺生丸の予想はまたも裏切られた。
少女の片鱗すら宿すには程遠いその顔が見せたのは、屈託のない満面の笑顔。
まるで親に対してするようなそれには、理由もなければ他意もない。
ひどく甘ったるく、痛いほど目の奥に突き刺さる。
行き場を失くし、下ろされた爪は呆然としているようにも見えた。
まだ足が完全に言うことをきかないのか、がくんと膝が崩れてその場にへたり込んでも笑みは消えず、
今度は目の前にある妖毛に手を伸ばす。
見たこともないきれいなものに触れ、輝く瞳をその持ち主へ向けてまた笑う。
――何なのだ、これは。
何に対して苛立っているのか、もう判らなかった。
片膝をついた殺生丸はもう一度、だが今度は爪を内側に折り、指の背を向けて手を伸ばした。
きょとんと目を丸くしている頬に触れようとしたその時。
ぴくりと動きを止めた手はそのまま離れた。
立ち上がり、踵を返した妖の消えた先をじっと見ていた幼子の耳に、聞きなれた声が届く。
ぱっと振り返ったその顔に、妖に見せたものと寸分違わぬ笑顔が浮かんだ。
「――りんっ!? 父ちゃん母ちゃん! りん、いたよーっ!」


  *  *  *


(こ、この辺りだったと思うが……殺生丸さま、わしのことなんて放って行かれたに決まっとるよなぁ……)
山二つ分ほど飛ばされ、必死に戻ってきた邪見の手にはしっかりと握られた人頭杖。
あの衝撃でも放さなかったのは褒めるべきか、それとも単に失くした後が怖いだけか。
その是非はともかく、いつもならさっさと先へ進んでいる主をそこに見つけた邪見は涙を零さんばかりに感激した。
漸く自分の努力と忠誠が報われる日が来たのだろうか。
だが、喜び勇んで走り寄った邪見を迎えたのは清々しいほど容赦ない踏みつけだった。
……やはり、そんな訳はなかったのだ。
だが、よろよろと体を起こした邪見は、主のにおいの中にほんの少しだけ異質なものを感じた。
まさか、そんな筈は――
思わず声に出しかけたが、ここ最近で一番鋭い主の視線に射抜かれ、ぐっと口を噤んだ。
ちらりと阿吽に目をやっても、彼らはあからさまに目を逸らしただけだった。

……己は一体、この手で何をするつもりだったのか。
何を、確かめようとしていたのか。
殺生丸は考えようとして、やめた。
あんなものに興味はない。
己が求めているものは、唯ひとつなのだから。

心なしか、いつもより少しだけ速く歩く主の後を邪見は急いだ。
一日に二度も蹴り飛ばされるのは御免だ。
(はぁ…誰かもうひとり供をつけて下さらんかの……そうなれば少しはマシになるかも……)
――ま、無理じゃろうな。
そう邪見は嘆息したが数年後、願望を遥かに越える賑やかさで以ってそれは叶えられることになる。
苦労が軽減されたかどうかは、別として。
そして――……


「……殺生丸さま……? どうしたの?」
「この傷はどうした」
「これ? んー…小さい頃にね、家族で出かけたときに、あたしだけはぐれちゃったの。
 それで、見つけたときにはもうケガしてたんだって。全然憶えてないんだけど」
「……そうか」
「あ、でもね、結構血が出てたのに泣いてなくてね、笑ってたんだって。えらいでしょ?」
「…………そうだな」
「む……殺生丸さま、もしかして馬鹿にしてる?」
「何故」
「だって声が笑ってるもん。…もう……子供扱いばっか……」
「そう言っている内は子供だ」
「そんなことないもんっ。ちゃんと、大人なことも言えるんだから」
「――ほう。……では、ゆっくりと聞かせて貰おうか」

この妖にしては珍しく語尾の上がったその声に、りんはたちまち後悔した。
膝に乗せられてるこの状態では表情は見えない、でもきっと口元は意地悪げに笑んでいるに違いなかった。
――やっぱり、子供扱いの方がいい。
負け惜しみのような小さな呟きに、ふっと息を漏らす。
吐息がかかり小さく震えた肩、そこにある薄い傷痕に殺生丸は新たに己の痕を塗り重ねた。

【終】


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