『雲路の果て』





世界中が陽に染まる黄昏時。
畦道を村へと辿る、細く長い影がひとつ。
篭いっぱいに薬草を抱えた少女は、ふと空を仰ぎ見た。
淡藤から浅紫、茜、柿色、そして眩いばかりの金色――幾度見ても圧倒される、美しさ。
降り注ぐ光の、あまりのまぶしさに眼を細めた横顔は普段よりもずっと大人びて見える。
だが、少女が見ているものは夕映えではない。
……あの時もこんな風に強い眸だったな、と思う。
痛いぐらい真っ直ぐに向けられたそれに瞬きも忘れて。
発せられた言葉に頭の中は真っ白になって。
中途半端に開いた口は動かすことが出来なかった。

―嫌だ

―あたしも一緒に行く

本当は叫びたかった、以前そうしたみたいに。
なのに声は喉の奥に貼りついたまま、どうしてもかたちにならなくて。
心臓の音は何倍にも大きくなっているのに何故か、冷たいものが中心を流れた。 
言葉の意味を理解するのに、随分とかかった。
あんなに長い間向き合ったことは今までなかった。
見下ろすでなく、自分のところまで降りて来てくれた。
しゃがみ、片膝をついて、ゆっくりと一言ずつ……ずっと、見つめたまま。
それはいつもの様子からは想像もつかないほどひどく真摯で、
あたしは、握りしめた両手に動揺を隠しながら何とか頷くことしか出来なかった。
俯けば滲んでしまう視界を拭って顔を上げた、すぐそこには―――
……どう、言えばいいのだろう。
困ったような、ほっとしたような、どこまでも優しい眸。
抑えていたものが溢れ出しそうで必死に唇を噛んだ。
大丈夫。
置いていかれるわけじゃない。
すぐまた会える。
だから笑わなきゃ――
そう思うのに、できない自分が情けなくて……

突然、頬に感じたあのひとの手。
触れるか触れないか、もどかしい距離で膚(はだ)を撫でる体温。
もっとはっきり確かめたくて、離したくなくて。自分の手を、そっと重ねた。
どれくらいの時間そうしていたのだろう。
長かったかも知れないけど、短かったのかも知れなかった。
伝わる冷たいぬくもりに全部が溶けて。
…思えば、いつだってそうだった。
ほんの気紛れに、でも決まって、一番欲している時にそれを与えてくれる。
無条件に安心できる唯一のもの。
気付けば心はすっかり凪いでいて、ようやくあたしは少しだけ笑うことができた。
その時、ふっと眸を眇めた相貌が微笑んでるように見えたのは気のせいだったのか、判らない。
たださっきの痛みとは違う、奥にじんと沁みこむ痺れに指先まで震えたのを覚えてる。

添えられていた手がすり抜けて、間近にあった顔がいつもの所へ遠ざかった。
その視線はあたしの頭上を通って後ろへ向けられて、心なしか厳しくなっている。
振り向いた先に立っていたのは今日から一緒に住まわせてくれる人。
ついこの間お世話になった時は、まさかこうなるとは思わなかった。
本当のおばあちゃんみたいでもちろん好きだけれど、ここで暮らす時間が短ければいいなと、そんな事を願ってしまう。

「―――判って、いるだろうな」
とても低く響いた声は何だか怒ってるようにも聞こえた。
でも、楓さまは全然気にしてないみたいで笑みを浮かべたまま。
「ああ、判ってるよ。しっかり見せつけられたからね、心配しなくて良い」
ざあっと、風が一陣吹き抜けた。
太陽の粒を弾きながら野の草が踊る。
視界でばたつく髪を押さえていると不意に後ろの気配が消えた。
驚いて探した、でもその姿はもう遠い雲の向こうに在って、かすかに白銀が煌くだけ。
結局、最後まで何も言うことができなかった。
もっとちゃんと笑いたかったのに。伝えたかったのに。
瞬く間に、残像すらも跡形なく消えてしまった空から眼が離せない。
「……そんな顔をしなくても、あの様子じゃすぐ会いに来るだろう。大丈夫だよ」
穏やかでいて面白がっている風の声音と眼差しは、どこか訳知り顔。
さっきのやり取りを見られていたかと思うと急に恥ずかしくなって、朗らかに笑う楓さまを早くと急かし、村へと向かった。
頬に残る感触と、上がり続ける熱を持て余しながら。


村での日々は、新鮮で懐かしい。
最初の頃は不安で怖くて、影を必死に追いながら身を小さくして眠っていたけれど、
楓さまが言った通り度々会いに来てくれる内にそれもなくなった。
知らなかったことを知るのは楽しい。
ほとんど忘れかけていたものの中にいるのは嬉しい。
それでも夕陽を見るとどうしようもなく心がさざめいて、同じ色を持つあのひとを想わずにいられなくなる。
こうして一人でいる時は尚のこと。村の中では、いつも誰かが近くにいてくれるから。
おかしなものだと思う。
昔はずうっと一人でも、寂しいと感じたことなんて無かったのに。
どんな時も平気だったのに。
いつの間にか包まれていることが当たり前になっていて、自分がどれほど柔らかな繭の中にいたのかを思い知らされる。
村の人たちはみんな良くしてくれるけれど、でも、やっぱり違うのだ。
あたしにとって本当に必要なもの、魂が求めているもの……剥きだしになってゆく、裸の心。
会いたい。
でも、大丈夫。
明日になったら、きっと。
あの雲の向こうからやって来てくれるから。

―――ね、殺生丸さま。

【終】


「小説」へ トップへ