『11 髪』





夜風が優しくなってきた。
突き刺さるように冷たいものから、ふわりと微かに花の香を運んでくるものへと。
その香りは妖の鼻先をくすぐり、からかう様に周りを浮遊する。
東国よりも一足早い、春の兆し。
(……鬱陶しい時節だな)
季節などに興味は無い妖でも、それとは無関係に鋭敏な嗅覚はありとあらゆる《におい》を拾う。
普段は気にも留めていないが、急激に、それも大量に生物が蠢き出すこの時期には少々うんざりしていた。
今はまだ香ってくる程度の花々もすぐに咽返るようなものへ変わる。
更に雌が雄を誘い、雄が雌を求めるにおいまで混ざってくる。
この妖が煩わしさを感じるのも無理はないだろう。
息をひとつ吐き、妖鎧を無造作に脱いだ殺生丸は腰を下ろして柱に背を凭れさせる。
殆ど装飾性の無い、だが質の良い物で調えられた部屋の中で燈台の灯りがゆらゆらと浮かぶ。

奈落との戦いの後も、旅を続けていた殺生丸たちがこの邸へ帰って来たのは一年程前のこと。
当然のように、少女を連れて。
ここに来てからも、りんにとって日々の暮らしに大差はなかった。
勿論衣食住に困る事がなくなったのは大きな変化であったが、あちこち走り回っては邪見から毎日の様にお小言を貰い、殺生丸が出かけた時は今日か明日かと帰りを待つ。
それは旅をしていた頃と全く同じであった。
ひとつ違う所は、懐いてくるのは相変わらずなのに妙に距離を置くような真似をする、という事だ。

何かを察したのか、僅かに視線を動かした殺生丸は再び腰を上げ襖を開けた。
目を向けた廊下の端から可愛らしい足音と嗅ぎ慣れた匂いが近付いてくる。
急いでいるのか、音の間隔が短く聞こえた。
程なくして姿を見せたのは、脳裏に浮かべていた通りの少女。
「あ! 殺生丸さまっ、おかえりなさい!」
頬を紅潮させて駆けて来る様は幼い頃とまるで同じ。
「ごめんなさい、お出迎えに行けなくて……」
「強制した覚えは無い」
「うん、あたしが行きたかっただけ」
そう言って、にこにこと笑う顔も同じもの。
何の衒いも無いその様子に、殺生丸はもうひとつ、今度は軽い諦めの混じった息をつく。
「湯に入っていたのか」
「うん、今あがったところ。何で判ったの?」
「髪が濡れたままだ」
「あ、そっか。急いで来たから拭くの忘れちゃって……部屋に戻ったらすぐ乾かすね。――じゃあ、おやすみなさい」
「……入れ」
「え?」
「ここで乾かせて行けば良い」
「でも……」
「良いと言った」
半ば強引に会話を終わらせ、りんを中に入れて襖を閉める。
先程と同じ所に片膝を立てて座ると、りんも迷いながら腰を下ろした。
留めたからと言って何か目的がある訳でもないが、その態度が気に入らない。
少し前なら、今の台詞を言うのは己ではなく……。
――莫迦莫迦しい。
そんな些事、どうだっていい筈だ。
《これ》がどうしようと己の知った事ではない。
そう考え直しても、奥底で燻り続ける不快感は平常心を確実に削いでいった。
背けていた顔を、振り払うように戻した妖の眼前に薄闇の中で髪を拭く少女が映し出される。
その性根を表すように跳ねる髪は滴る艶を得て、優美な曲線を描いていた。
《烏の濡れ羽色》とはよく謂ったもの。
少し俯いた横顔は揺れる灯りの所為か、別人のように頼りなげ。
肩に掛けていた白布で胸に流した髪を押さえる度、誘うように波打つ光沢。
白い寝着を纏う身体は淡い陰影に縁取られ、そのなだらかな輪郭は子供のものでは既に無く。

視線が気になったのか、躊躇いがちにこちらを向いたりんが小首を傾げて困ったような仕草を見せる。
「あの、殺生丸さま? そんな、じっと見ないで欲しいんだけど……」
「何故」
「だって恥ずかしいし……」
「何がだ」
「なにって――恥ずかしいんだから、仕方ないでしょ……?」
「理由を言え」
言えば言うほど理詰めで追い立てられ、答えようのないりんは益々顔を俯ける。
表情は髪に隠れて全く見えないが、間から覗く耳は可憐に染まっていた。
立ち上がり前まで行くと、おずおずと見上げてくる紅顔。
黒い瞳の中で仄かな橙色が揺らいでいる。
額に張りついた前髪からひとつ、雫が垂れて白磁をなぞった。

「殺生丸さま? ――ひゃっ」
滑る雫を舌で掬えば、更なる甘さを求めて渇きが喉を競り上がる。
それを押し止めるように唾液を捩じ込み、戸惑う少女の黒髪を一房手に取った。
(こんなに、伸びていたのか)
まだ少し湿り気を帯びた髪はしっとりと殺生丸の手に吸い付く。
そのまま指で弄べば素直に絡み付き、まるで己がりんに捕われているような錯覚に陥る。
いや、錯覚ではないのかも知れない。
いつもより濃やかなりんの匂いは花のそれと混じり合い、殺生丸を蕩かしてゆく。
抑えきれない奔流が指の先まで支配する。
誘われるままに匂いの源を引き寄せ、漆黒の波に顔を埋めた。
柔らかなひんやりとした感触が火照った肌に心地良い。
震えるりんの吐息が耳をくすぐり、伝わる鼓動が己のそれと重なった。
「せ、殺生丸さま? どうしたの……? ね、離し――」
願いを聞き入れるつもりは更々無く、頭と腰に回した手に力を込めてより強く抱き締めた。
身体を硬くするりんの首筋に、低い声が囁く。
「問いに、答えろ」
「……え?」
「何故、恥ずかしい?」
「よ、よく判んない……ただ、殺生丸さまに見つめられたら熱くなっちゃって……今はもっと恥ずかしいよ? ほっぺた舐められるし、こんな近くにいるんだもん」
「私を避けるような事をするのは?」
「避けてなんか……だって、あんまり近寄っちゃいけないような気がして」
「何故そう思う?」
「それも、判んない……ごめんなさい」
「教えて欲しいか?」
差し伸べられた言葉に、迷わず首を縦に振る。
どうしてこんな風に思うのか判らず、自分の気持ちを持て余していたりんにとっては救いの手。
殺生丸は、知らず口角を上げた。
己を惑わせているものが、花であろうとりんであろうともう構わない。
吸い込まれそうな、このぬばたまの中に溺れるのも悪くはないだろう。
少し身体を離し、右手で顎を上に向かせる。
左手は勿論、腰を掴んだままで。
心なしか先程よりも赤みが増しているような頬は熱い。
もの問いたげな唇も同じように色づいて、肌の白さと深い黒が一層引き立たせる。
顔を傾け、己のそれを近付けようとしたその時……

――っくしゅん!

この場に、余りにそぐわない声。
動きを止めた殺生丸の眸には怪訝の色が浮かび、眉間にも軽く皺。
「……寒いのか」
「ん、ちょっと。髪がね、まだ乾いてなくて……でも大丈夫だよ」
春が近いとはいえ、夜の空気はまだまだ涼しい。
完全に乾いてない状態で髪を放っておけば、障りが生じるのは目に見えている。
「――……部屋に戻れ」
「え? でも、教えてくれるんでしょ?」
「それは今度だ。戻って、髪を乾かせて寝ろ」
「……はぁーい……」
納得しきっていないりんを立ち上がらせ、手を引いて廊下に出る。
「……じゃあ、おやすみなさい。本当に、教えてくれる?」
「そう言った」
確かな言葉を貰って安心したのか、りんは《約束ね》と笑い踵を返す。
髪が身体から少し遅れて後を追い、匂いが舞った。
それは平静を取り戻しかけた殺生丸をまたしても掻き乱したが、当然表に出ることは無い。
そうしてりんの姿が見えなくなると、この妖にしては珍しい緩慢な動作で部屋に戻った。

(意味も知らぬ子供が……)

だが、その《子供》に振り回されているのは他ならぬ己自身。
花の香と少女の匂いが漂う中、妖は今夜で最も深い溜め息を吐いた。

【終】


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