『白夢』





女は問う。

ねえ、あんたの名前……何てんだい?

男は微笑む。

僕の名は――



「ふぅ……」
ことりと、猪口を盆に置く。
銚子の酒はまだ半分以上残っているが湯気はなく、とうに冷めてしまっている。
肴も殆ど手をつけていない。
目を閉じると、障子の向こうからさやさや囁く葉擦れの音。
庭に竹が繁っていたからその音だろう。
まるで猫又でも出てきそうな翳りを漂わせた、色味のない庭だった。
部屋だって洒落た調度のひとつもない、シケた場末の料亭だ。
(らしくないったらないね。本当、何やってんだか……)
自嘲気味にその紅い唇を歪ませ、ひとりの酒を注ぎ喉へ流しこむ。
――今日の座敷は散々だった。
客は何度か呼ばれたことのある陸軍のお偉いさん。
少将だか何だか知らないけど、自慢話ばかりを繰り返す腹の出た助平ジジイだ。
それでも客は客だし、こんな芸者が片意地張ったって、おまんまが食えるわけじゃない。
たまには趣向を変えようかと思ってね、とやけに上機嫌で呼ばれたのがこの料亭だった。
陰気くさい雰囲気と大口開けた笑い声に、元々乗ってなかった気はすっかり滅入っちまった。
そのうち伸びてくる手も、いつもならうまくあしらえるのに柄にもなく叩いて突っぱねて。
損ねた機嫌を取りもせず上の空のあたしに、お客は顔を真っ赤にして怒って、ついでに一暴れして帰っていった。
残ったのはあたしと頬の痛みだけ。
散らばった膳が片付けられた後も動く気が起こらなくて、こうしてひとりで飲んでいる。
どうにも、頭がすっきりしない。
半分霞でも掛かっているみたいだ。
もちろん酒のせいでも殴られたからでもなく、今に始まったことでもない。
何もかも、“あれ”のせいだ。
いつからか繰り返されるようになった――夢。
最近は眠りの中だけじゃなく、溢れ出た幻を昼間でも視るようになった。
一体、これは何なんだろう。
白い霞に視える影、輪郭さえ判然としないのに、無性にそこへ駆け出したくなる。
あそこは何処だった?
あれは誰だった?
あたしは何を……?

「失礼」

突然の声に、はっと意識を引き戻した。
黒服の男が音もなく襖を開けて、片膝立ちにこっちを見ている。
肩まで伸ばした黒髪をさらりと流した、見るからに優男で見るからに怪しげな奴。
その整った顔立ちの微笑はどこか蠱惑的で、耳元で一言二言囁けば靡く女はいくらでもいるだろう。
直感した。
ろくな男じゃない。
「誰だい、あんた」
睨みつけてるってのに、そいつは許可も無しに入ってきた。
「邪魔して悪いなぁ姐さん。隣の間で飲んでる者なんだが、どうも気になって酒に集中できなくてね」
「出て行きな」
「ああ、勘違いしないでくれ。姐さんの悩みに、力になろうと言ってるんだからさ」
すべてを見透かしたような口振りで、男は正面に腰を下ろした。
「……あんた、一体、」
「若旦那!」
二度目の誰何は子供の声に遮られた。
でもどこから……と思ったら、開いたままの襖からひょこりと顔を出した。
年頃には程遠い、目玉みたいな妙な柄をした着物の生意気そうな小娘だ。
赤みを帯びた薄い色合いの眸は大きく、まっすぐこっちに向けている。
「なんだ“手の目”、邪魔するな」
「若旦那こそ、まーた女を引っかけようってンですかい?」
「まだ小便臭い奴が何言ってる。大体、お前にそんな世話ァ焼かれるほど長い付き合いをした憶えはないぞ」
「へーへー。……おっと、すまねぇ姐さん。あっしは手の目、先見(さきみ)や千里眼で座をとりもつ芸人でさァ」
にかり、と笑ってその小娘は右の掌をあたしに見せた。
何だと思えば、そこには大きな目が単調な線で描かれているだけ。
「そんな落書きの子供騙し、付き合う暇はないよ」
「姐さん、そいつは聞き捨てならねえ。この刺青は伊達じゃねェんだ、何なら……」
「手の目、それくらいにしておけ」
男が軽くたしなめると、小娘はぺろりと舌を出して肩を竦ませる。
「――で若旦那、毛羽毛現(けうけげん)に陰魔羅鬼(ヲンモラキ)、次は何を呼んじまったんです?」
「誰が呼ぶか、向こうが勝手に寄ってくるんだ。……そうだな、お前もちょっと視てみるか?」
「いいんですかい? ンじゃ姐さん、ちょいと失礼しやす」
「なっ……!?」
あたしを無視して話を進めた挙げ句、小娘が掌の目をこちらに近づけてきた。
何をするつもりか知らないが、このまま流されるのは真っ平だ。
「心配ないさ。楽にしてな」
立ち上がろうとしたのを察して、男が人当たりのいい笑みをにこりと向ける。
胡坐をかいて頬杖してるくせに、細められた目は有無を言わせない力で見据えてくる。
あたしは力を抜いた。
信用したわけじゃないけど、ひとりで鬱々と飲み続けるよりはマシかも知れない。
乗りかかった船だ。
どこへ流れ着こうが沈もうが、その時考えればいい。
小さな掌の上で、かっと見開かれた目があたしの額に触れる。
頭の底までを覗き込むように。
「……霧だ。白い霧ン中に影が視える。ひとり……いや、小っこいのもいるな。顔、は……」
「顔は!?」
それは夢と同じモノ。
でも自分はもうひとつの影に気付かなかった。
いくら目をこらしても判らなかったその顔も、こいつには視えているのか。
気が逸った。
しばらく眉間に皺をつくって目を瞑っていた小娘が、ふうと息を吐いて手を離す。
「駄目だ若旦那、あっしにゃこれ以上は視えねえ。遠すぎまさァ」
知らず膨らんでしまった期待が落胆に塗りかわり、その大きさに嗤いたくなった。
どうして、ここまで。
そんなあたしをまた掻き乱すように軽薄に、男は答える。
「ああ。問題ない」
その声の近さに驚いて俯いていた顔を上げると、男はすぐ目の前まで間を詰めていた。
癪だけど、やっぱり整った顔をしてやがる。
「姐さん、お前さんが視てるのは過去の夢だ。だが“今のお前さん”じゃァない」
「は、なら何だってんだい。前世ってやつだとでも……」
「その通り」
「……は?」
冗談で言ったことをあっさり肯定され、思わず間抜けな声を出してしまった。
たぶん顔も同じだろうけど、直す気も起こらない。
「じゃあそこに、未練か恨みがあるってことですかい?」
一歩下がっていた小娘が尋ねた。
「いや、そんな類のもんじゃない。ほんの、些細なことさ」
意味ありげに微笑みながら、男は誘惑の言葉を告げる。
「行ってみるかい?」
「馬鹿なこと言ってんじゃ……」
「行けるさ」
まるで近所へ散歩にでも出るような気軽さだった。
「道は既にできている。お前さんの夢を、辿ればいい」
「ゆ、め……?」
「そう、夢だ。……目を閉じて」
でもふざけてる様子はない。
あたしは言われるがまま瞼を下ろした。
連れてけるもんなら連れてってみやがれってんだ。
「夢を思い浮かべて」
あの影を思い浮かべる。
「さあ、行こう」
囁く声に力が抜ける。
ぐらりと、躯が傾ぐ。
倒れる背中を誰かの手に支えられた気がしたけど、もう目を開けることはできなかった。

「――手の目、座布団ふたつ」
「へい」
「それから、姐さんに何か掛けてやれ」
「へい、ここに。……若旦那」
少女のどことなく不安げな呼びかけに、男は座布団を枕に寝転びながら「ん?」と気の抜けた声で答えた。
「あっしに視えたのは確かに影だけなンだが……あの大きい方、人じゃねえ気がするんでさ。それも、そこらの奴らとは段違いの」
「そうだな」
「気をつけてくだせえ」
まじめな心配だった。
なのに、男はやはり笑うだけ。
どうせこれも余興のうちなんだろう。
「まったく、お前に心配されるようじゃ俺も終わりだな」
「あっしの場代を払ってくれるお人がいなきゃ困りまさァ」
「はは、尤もだ。……じゃ、ちょっと遠出してくる。熱燗の用意しといてくれ」
「承知致しやした」
軽く下げた頭を戻すと、男はもういなかった。
並んで眠るふたりを眺め、少女は自分の膝と向かいあう横顔をじっと見下ろす。
秀麗で、人をくった笑みばかりの白皙はこうして見ると少しだけ幼く映る。
「若旦那……」
少女の声が囁いた。
そうっと伸ばした手の子供らしい丸みが、男の黒髪に触れると共にしなやかに、女のそれへと変わる。
頬にかかる髪を愛しげに梳く女。
柔らかな曲線を描く肢体に艶やかな唇、僅かに伏せられた睫毛。
その睫毛が揺れ、中に光る色素の薄い眸がふたつの寝顔を見比べた。
若旦那たちは、もう着いただろうか。
何を視てるんだろうか。
でも、だからといって、こっちは夢じゃないなんて誰が言える?
「……早く、帰ってきてくんなせえ」
女の声が囁いた。
返事をしない男をその後もしばらく見つめていたが思い切るように立ち上がり、部屋を出た。
障子を閉める、ぱたんという音が響いて消える。
少女は竹がざわめく暗い廊下の先へと踵を返した。
酒を、女将に頼まなくてはいけない。
若旦那に頼まれたんだから。



真っ暗だ。
狭いのか広いのかも判らない、押し潰されそうな闇一色の空間。
こんな所で、あたしにどうしろってんだ。

(大丈夫だ)

男の声が、頭の中で直接響いた。

(道はあるって言ったろう。まっすぐに歩けばいいのさ)

声に導かれるように、足元に細い道が照らされていく。
その向こうに小さな光が見え、他にどうしようもないので仕方なく歩き出した。
懐かしい風の気配がした。

光をくぐると、そこは更に眩しい光に満ちていた。
強烈な白い輝きに思わず目を瞑り、そろそろと開く。
ざあっと、風が吹き渡った。
鮮やかな緑の野原、淡く霞む山々、蒼く高い空。
長閑な風景だというのに何故か胸がざわついて落ち着かない。
「ここ……?」
「憶えがあるかい?」
「!? ――あんた、いつの間に……っ」
「さっきからいたんだけどなァ」
真横に立つ男は、惚けた物言いできょろきょろと辺りを見回している。
脱力したあたしは質問を変えた。
「……ここ、一体どこなんだい」
酒を飲んでたところを邪魔されて訳の判らないことを言われて、挙げ句こんな山ン中まで連れてこられて。
正直、思考がついていかない。
なのに男から返ってきたのは「さあ」という頼りなさ過ぎる答えだった。
「お前さんの夢から辿ったんだ、俺が知るわけないだろう。さすがにここまで遠くに来たのは初めてだ」
あたしの夢。
そういえばさっきもそんなこと言ってたか。
しかも前世だとか何とか……憶えてもいないのに。
溜め息をついて視線を落としたあたしは、ぎょっとして空を仰ぎ見た。
太陽は中天を過ぎたところで隈なく光を注いでいる。
なら、どうして。
「影が、無い……?」
自分にも、この男にも。
足元のこんな小さな花にさえ、影は寄り添い一緒に揺れているのに。
そもそも太陽の位置だっておかしい。飲んでたのは何時だった?
「当然だろう」
男が口端をつり上げる。
嫌な笑い方だ。
「俺たちが影なんだから。あと、時間は存在しない」
口に出していないことにまで返事をされた。
そのくせ何もかも理解できないのはあたしの頭がおかしくなったのか、こいつ自体がおかしいのか。
きっと両方だ。そうでなきゃ、こんな事があるはずない。
ほら、と男が指を差した。
「あそこだ。行ってくるといい」
本当に、一体何を考えてるんだろう。
こっちの混乱も知らずに――いや、全部見通してるに決まってる。
これはそういう笑みだ。
おろおろして右往左往してる奴を、頬杖でもつきながら上から眺めてる笑い方だ。
どこへ流れ着こうが沈もうが、とは思ったけど、たとえ沈んでもこいつは自分の気が向かなければ指一本も動かさないんだろう。
でも、不思議と腹は立たなかった
。単に一周回っただけなんだろうけど。
二度目の溜め息をつきながら示す先へ目をこらす。
誰かがいる。蹲っている。
頭の奥から、風が吹いた。
堆積したものが払われ背を押される感覚につられて、視線を縫い止められたまま足は勝手に一歩を踏み出す。
少しずつ近づくにつれ、だんだん輪郭がはっきりしてくる。
耳にも、さやかな風に交じってかすかな歌声が聞こえてくる。
そうだ。
あたしは、前にも、これを。
空から。
――ああ、もう。
そんな歳になっても、まだこいつはこんな戯れ歌を歌ってるのか。
同じように野で遊びながら、同じようにあいつを待って。
あと三歩というところまで近づいても、気付く様子はまったくない。
……そっか、今のあたしは影なんだっけ。
近くで見下ろす横顔はあの頃の面影を色濃く残しながら、それでもやっぱりちゃんと女になっていた。
腰まで伸びた髪はそのまま、年月の長さを示している。
ふと、ありもしない影に気付いたかのようにその横顔がこっちを振り見た。
大きな眸が更に見開かれる。
口を少し開けてぱちぱち瞬きする無防備な仕草には、憶えがある。
あまりの変わらなさに胸が軋んだ。
瞼が熱い。
判った。思い出した。
あたしは、考えちまったんだ。
自分が風になってゆくのを感じながら、霞む像を映しながら。
あいつは、どうなんだろうって。
無愛想な顔してひとり歩く妖怪の後ろで、無邪気に笑ってた人間のガキ。
いつまで、あんな風に。

「――もう、いいのかい」

後ろからの問いにあたしは頷いた。
「ああ。……充分だよ」
判ったから。
あれからも、今も。……この先も。
変わらないんだって、判ったから。
最後に視るものは、きっと同じだ。
その距離はあたしよりずっと近いだろうけど。
……ちょっと、羨ましいかもな。
ったく。
一番、最後の最後に気がかりだったのがこのガキなんてな。
やんなっちまう。
薄れていく視界の端に、何度も何度も夢に視て焦がれた姿が映る。
けどそれも、これ以上留まる理由にはならなかった。



――びっくりした。
足音が聞こえたわけでも影が差したわけでもないけど、誰かがいる気がして振り向いたら、あのひとがいて。
名前を呼ぼうとした。
できなかったのは、そのひとが微笑ったから。
その眼差しがやさしすぎて、なぜか泣いてるように見えて。
あの頃と違う着物、違う髪……かすかに透けた輪郭には影が無かった。
口元が動いても何を言ったのかは判らず、陽炎のようなそのひとは風が吹くように消えてしまった。
代わりにそこへ現れたのは、黒い男のひと。
真っ黒な被り物に、真っ黒な見たことない着物。
胸元でひらひら揺れる飾り布だけが痛いほど白い。
男のひとにも影がなかったけど、そのひと自身が影のようにも思えた。
穏やかな昼下がりの花咲く野。
切り取られたようにぽっかりとあいた、影。
被り物をとった下から、にこりときれいな顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「こんにちは、お嬢さん」
なんで、このひとの声は聞こえるんだろ……。

「こ、」
「誰だ」
疑問に思いながらも、とりあえず挨拶しようとしたりんの声と違う声が重なった。
耳に馴染んだその声は明らかに剣呑で、いつの間にかりんの前を塞ぐように立っていた背中からもそれは伝わってくる。
邪見なら即座に石と化す視線で睨み据えていることだろう。
だが男は飄々と、表情ひとつ崩さない。
「ただの付き添いさ」
答えているようで全く答えていない。
殺生丸は僅かに眉根を寄せた。
「誰のか……は、あんたの方が知ってるだろう? こっちはついさっき知り合ったばかりでね」
まァ用は済んだみたいだが、と男は殺生丸の左横に目をやりながら笑みを深くした。
見ると、立ち上がったりんがひょこりと顔を出している。
殺生丸は舌打ちでもしたい心境で、しかし面には出さずに左手でりんを遮った。
何のために自分がここに立ったと思っているのか。
「りん、下がっていろ」
「大丈夫だよ殺生丸さま。このひと、悪いひとじゃないから」
「――りん」
少し強めに名を呼んだ。
それでも娘は屈託無い笑顔で妖を見上げる。
「殺生丸さまも、そう思ってるでしょ?」
言葉に詰まった。
この娘は本当に、いつも。

「ハハハハッ!」

突然の高笑いにりんはきょとんと、殺生丸は眉間の皺を深くして男に向き直った。
「いや失敬。期待以上だったのでつい、ね」
男は楽しげに、底の知れない妖しげな笑みを湛えている。
そう、あやしい。
あやしいことこの上ない。
それでもすぐさま斬り捨てなかったのは、はかりかねているからだった。
何に対する場合でも、殺生丸にとって最も重要なのは嗅覚だ。
相手がどういうモノなのか、それは視覚以上に鋭敏にありとあらゆる情報を捉える。
なのにこの男には“におい”が無い。
妖怪の類ではない、おそらくは人間――だがそれにしては、においが無さすぎる。
あの世のものでさえ死の臭いを撒き散らすというのに。
殺気を欠片でも放っていればいいものを、それすら無いのだ。
まるで残像。光が生みだす、本体から写し取った影のような。

あるのに、ない。
ないのに、ある。
“これ”は何だ――?

「そう難しい顔をしなさんな」
風が吹く。
草原を渡り、殺生丸の銀髪を、りんの黒髪をはためかせる。
だが黒ずくめの男の髪や、纏う裾の長い外套が風に触れることはない。
「これは夢。夢で起きる事をいちいち理論づけるのは無意味だよ」
夢と現実の区別がついていないとでも言うような口振りだ。
「ふざけるな」
「これ、夢なの?」
再び声が重なった。
男はまた笑い、殺生丸はますます不機嫌になる。
「ああ、夢だよお嬢さん。だからまた会える。いつでもね」
優に頭一つ分は身長差があるりんに目線を合わせ、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
そこへすかさず殺生丸が割って入る。
「これ以上りんに戯言を吹き込むな」
恐ろしいほど低い声で、刃よりも鋭い殺気を篭めた双眸で男を射抜いても、掴みどころのない微笑はそれをするりと受け流す。
「心配しなくても、俺は来る者拒まずでね。わざわざ動く性質(たち)じゃない」
さて、と男が空の彼方を見遣った。
「そろそろ“この”夢は終わりだ。長く待たすとあいつが煩い」
視線を人間の娘から妖の男へゆっくり流し。
「それに、あんたの手にかかったら向こうまで危なそうだ」
最後まで笑みを絶やさず、闇色の外套を翻して宙に消えた。
後には男の存在など初めからなかったように変わらぬ風景が続くばかり。
今起きたことは本当だったのだろうか。
それとも?

「――ねえ、殺生丸さま」
「何だ」
「やっぱり悪いひとじゃなかったね」
何を根拠に、そう言いたげな顔にりんは遠くを眺めるように微笑んだ。
「あのひとを連れてきてくれたもの」
あのひと。
それが誰を意味するのかは殺生丸にも判っている。
ここへ戻った時に視た、一瞬の幻。
だが記憶と重なることはなかった。
姿形のせいではなく、そこに宿るものは似てるようで異なるものだったが為。
「殺生丸さまに会いに来たのかな……」
「お前だろう」
考えるまでもないことだというに、りんは驚いたように目を瞠った。
顔を伏せぎみに思案し、力んでいた眉を緩ませる。
「……すごく、きれいだった」
「そうか」
少しの沈黙が流れたのち、今度は少し不安を滲ませた声が妖の名を呼んだ。
「……殺生丸さま、今ちゃんとここにいるよね……?」
「何の話だ」
「だって、これは夢って……ねえ、殺生丸さまは消えたりしないよね?」
「莫迦莫迦しい」
いなくなるのなら。
この手からすり抜けていくのなら、それは。
「――確かめるか?」
意図を察しかね、小首を傾げるりんの頤を捕らえて両手で頬を包みこむ。
「え、ちょっと待っ……」
夢だろうが現だろうが同じこと。
このぬくもりを手放すつもりはない。



障子の向こうから、さやさや囁く葉擦れの音。
庭に竹が繁っていたからその音だろう。
まるで猫又でも出てきそうな翳りを漂わせた、色味のない庭だった――。
「え……?」
そこまで考えを巡らせたあたしは腸の冷える感覚に飛び起きた。
目に入ったのは一つの膳。
銚子の酒はまだ半分以上残っているが湯気はなく、とうに冷めてしまっている。
肴も殆ど手をつけていない。
「あたし……」
目の前が白い光で埋め尽くされた。
そして次の刹那には元の部屋。誰もいない。
男の言葉が耳の奥で木霊する。
――夢。
あれが夢? でもあたしは……

「あ、目が覚めたかい姐さん」

心臓が跳ねた。
振り返ると開けた襖から小娘が顔を覗かせている。
夢じゃ、ない?
「若旦那、姐さんが起きましたぜ」
小娘が後ろを振り見ながら声をかけると、その奥から男が銚子と猪口を持ったままやってきた。
「俺の方が遅れて帰ってきたんだがな。ま、疲れたんだろう」
そう言って立ったまま、ニヤけた口元を更につり上げる。
「楽しかったよ」
小娘が横で大仰に溜め息をつく。
なんだか力が抜けて、自然と頬が緩んできた。
もう霞も影も視ることはない。
「一応礼を言っとくよ。酌でもしてやろうか?」
普段ならこんなことは絶対に言わないってのに。
「いや、いい。美人は酒の味の邪魔になるんでね」
そいつはあっさり背を向けやがった。
まあいいけどさ。
――でも。

「待ちなよ」

男はゆっくりと顔を向けた。



「……あ」
少々間の抜けた、状況には決して似つかわしくない声が漏れた。
「――どうした」
「あの男のひとの名前、聞いてなかった……」
「二度と会わぬ。どうでもいいだろう」
でも、と濡れたあかい唇が吐息まじりに呟くのを声ごと塞ぐ。
呼吸を乱されながらもりんは続けた。
「また……会えるって、言ってた、よ……?」
「真に受けるな」
「だっ、て……気になる……」



「ねえ、あんたの名前……何てんだい?」
「名前、何ていうんだろ……」



  僕の名は 夢幻です
  夢幻魔実也 というのですよ



【終】


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