※永訣
隙間から覗く空は今日も蒼い。
秋のように澄みきってはいないがふわふわ柔らかく、綿を小さくちぎったような雲も気持ちよさげに浮かんでいる。
――この間は、空まで凍ってたのに。
季節は倦むことなく進み続ける。
全てを振り払い、置き去りにして。
ほんの少し前までは、その流れはとても緩慢で焦れったいくらいだった。
なのに、今は。
風が吹いた。
半身を起こした少女の黒髪を、袂をはためかせて軽やかに通り過ぎていく。
空気と一緒に、胸に溜まっていた澱まできれいに吹き去ってくれるようだ。
しかし、その心地良さに誘われ緩ませた頬や、髪に見え隠れする首の線はあまりに脆い。
風に混じって、後ろの方から微かな音が聞こえた。
振り向けば紙が二枚ほど、風に靡いて床に散らばっているのが見える。
――片付けなきゃ。
そうしなければいけない理由は、どこにもない。
誰も、何も言いはしない。
それでもりんは当然の如く立ち上がった。
思い通りに動いてくれない躯は重く、力も上手く入らなかったがその瞳に一点も翳りはない。
何ら変わりない透き通るほど深い黒曜は、まっすぐに在るがままを映している。
一歩を確実に踏み、細い手を真っ白な紙に伸ばした。
袖から覗いた手首も、やはり細い。
拾い上げた紙は文机の脇、飾り気のない黒漆の箱に納めた。
開けたことはないが、多分ここで合ってるだろう。
(……いつもは、物を置きっ放しにしたりしないのに)
存外に几帳面なあのひとの横顔を思い浮かべると、何だか可笑しくなって、口元は自ずと弧を描く。
あたたかくて少しくすぐったい、こんな何でもないことがりんはいつも嬉しくて、大切だと思う。
ひだまりのようなそれらは、ひとつ、またひとつとりんの中を灯してくれる。
泣きたくなるくらいの、淡い橙色で。
ほんわり余韻を転がしながら、蓋を閉めようとしたりんの手がふと止まった。
整然とした白の奥に紛れた、異質なもの。
無意識にそれを手に取って中を開いた。
りんを動かしたのは、ひとの手紙を見るという悪戯めいた誘惑ではなく、何かが記憶の底に引っかかった、呼ばれるような感覚。
「これ……」
埋もれていたものが掘り起こされ、光が当たる。
息を吹き返し、匂いまでが鮮やかに蘇る。
いびつな字。
くすんだ紙。
擦れてほつれた折り目。
何枚も、何枚も。
「っ……」
突然こみ上げたものに、目の奥が熱くなった。
心臓がきゅうっと引き絞られる。
――このひとは。
――本当に。
爪先まで奔った、痺れを伴う疼痛。
溢れ出しそうになるのを、零してしまわないよう口を手で覆った。
まだ、字を習い始めたばかりの頃。
嬉しくて楽しくて、何か書きたくて、そうしたら当たり前のように浮かんだ大好きなひと。
でも、いざ筆をとったらどう書けばいいのか判らなくなった。
いつも思っていること、普段口にしていないこと、でも一番伝えたいことがあるはずなのに、それは言葉にした途端に全くの別物になってしまう。
ありったけの語彙を並べても、どれを選んでも、言葉というかたちに嵌められたそれはたちまち光を失い、偽物になってしまうのだ。
結局、いつも話しているような身の回りのことを書いた。
それでも、涼やかなその顔を脳裏に描きながら文字を綴る時間はあっという間で、内容なんてあってないような文を差し出す瞬間は嬉しくて、どきどきした。
受け取ってもらえた時は、もっと嬉しかった。
その時の顔をよく憶えている。
仕方ない、そう言いたげに抓んだ人差し指と中指も、夕陽を弾く透き通った爪の色も。
何度も繰り返すたび、その手を同じように伸ばしてくれた。
――とっくに捨ててあると思ってたのに。
とめどなく湧き起こる奔流が胸に詰まって、息もできなかった。
何も羽織らないまま庭に下りたが思ったより寒くはなく、さわさわそよぐ風が耳をくすぐる。
陽を浴びて咲き綻ぶ色はどれも生き生きとしてやわらかい。
地面を擦る、少し間延びした足音が止んで宙に消えた。
手をつき、ゆっくり腰を落としてしゃがんだ少女の視線の先で、無言の火が稚い文字を舐めて呑み込んでいく。
細い霞色の煙が一筋、頼りなく揺れては天を目指す。
それを追って空を仰ぎ見た時。
「――っ! ぅぐ……っ」
焼けつく異物感が喉を襲った。
抑えきれず咳きこみ、息を吸うとそれがまた次を誘発して止まらなくなる。
喉の奥が引き攣れる。擦り切れてしまいそうだ。背中まで痛い。苦しい。
涙で視界がぼやけ、ままならない呼吸に気が遠くなりかけた頃、発作はようやく収まった。
口内に錆びた味が滲む。
押さえていた掌を見ると、不似合いなほど綺麗な赤が穿たれていた。
しかしそれにも慣れてしまったのか、濡れた黒い瞳は驚きもせず僅かに伏せられただけ。
懐紙で拭い、消えかけた火にかざすと簡単に勢いを取り戻して燃え上がる。
瞬く間に鮮赤は煤けた黒に変わった。
燃え尽きて煙も絶えた後、残された塵は微風にすら翻弄されて舞い上がり、留まろうとはしない。
それ以上飛ばされぬよう手で庇い、浅く削った土に埋めた。
周りよりも、やや色の濃くなったそこを押し固めながら呟く。
「……ごめんなさい」
勝手なことをして。
それから、それから――……。
薄く開いた唇を、ぎゅっと噛みしめる。
俯いたまま一点に注がれていた眼差しが、ふと横に逸れた。
そこに咲いているのは、紫苑色の小さな花。
――姫紫だった。
以前聞いた、この花のもうひとつの名を思い出す。
勿忘草――そう、呼ぶのだと。
『ドイツ……異国の話でね、岸辺に咲いていたこれを恋人のために摘もうとして川に落ちた男が、流されながら彼女に向かって叫んだ言葉が由来なの』
私を忘れないで。
その言葉を最後に、男は急流に呑まれ消えてしまったという話だった。
ひどく勝手だと思う。
それは呪(しゅ)だ。
忘却を赦さない、そのたった一言で一生を重い枷で縛める呪いの言葉だ。
季節が巡るたびに可憐なその花は彼女を責め続ける。
男自身に、そんな歪んだ願望は微塵もなかっただろう。
ただ、懸命だったに違いない。
でもやっぱり――自分には言えない。言いたくない。
何も残したくはなかった。
存在を訴えるようなものは、何ひとつ。
想像もできないほど途方もなく長く、気が遠くなるような時間を歩いていく足。
自分は、同じ足を持っていない。ついて行くことは叶わない。
ならばせめて、すべての痕跡を消したかった。
風にすぐ攫われる足跡がいい、ゆるされる間だけで。
なのに、その裏側で逆のことを希ってしまう自分がいる。
忘れてほしい。
憶えていてほしい。
どちらも我が儘だと知りながら。
出逢えたこと自体がとんでもない奇跡だというのに、つくづく欲深だ。
それでも、自分も妖怪だったらと思ったことはない。
人間でよかった。
本当に、そう思うから。
ゆっくり腰を上げて力を入れ、どこまでも広がる空を眺めた。
たったこの程度の動作にも意識を持ち、ひとつひとつ手順を踏まなければならなかった。
降り注ぐ透明な陽差しは知ったぬくもりに似て、瞼をそっと下ろす。
目には映らないその感触を確かめるように。
眩しい闇の中でも描くものは同じだった。
こんな躯になった今でも、あのひとは黙って傍に置いてくれている。
きっと、最後の瞬間まで。
子供の遊びでしかない文を、決して拒むことのなかった手と同じように。
それは信じられないほど甘やかな時間で、軋む音の鳴る胸を満たすのはいつも、あたたかな光だけ。
そのほんの一握りでも、返すことができるだろうか。
こんなにも幸せなのだと、伝えきれるだろうか。
すべてを形にする言葉なんて無い。
だから――。
「――りん」
呼ばれて振り向くと、すぐ後ろにそのひとが立っていた。
「殺生丸さま……」
「何をしている。――寝ていろと言った筈だ」
「ごめんなさい、あのね、風が気持ちよかったからつい……」
「……身体に障る」
「うん、すぐ戻るから」
笑って答えたのに、はっきり聞こえるほど大きな溜め息をされた。
信用できない、とでも言いたげに。
口を開こうとしたら急に視界が高くなって、間近で目線が絡み合う。
軽々と抱き上げられ、ふわふわの毛皮に包まれていた。
「それから、そんな薄着で外へ出るな」
「……はい」
神妙な返事とは裏腹に、りんは子供のような笑顔を浮かべている。
太陽を仰ぐかのように金色の眸が細められた。
「何がおかしい」
「だって、嬉しいから」
呆れたのか諦めたのか、それ以上の言葉はなく殺生丸は踵を返した。
――このまま、部屋に着かなかったらいいのに。
そんな思いがふと過ぎって、りんは気付かれないようにそっと笑んだ。
今文を書いても、やっぱり何も書けずに筆を置いてしまうと思う。
だから笑う。
ずっと、笑ってるから。
【終】
「小説」へ トップへ